3/09/2014

母とフリージャー

今日マーケットで沢山のフリージャーが売られていて、側のバラ達よりも甘い香りが漂っているその花店の一角に足を止めた。

フリージャーを想う時、その甘い香りの記憶と共に母の顔を思い浮かべる。
小学生高学年頃から高2までの6,7年間を当時炭鉱町として栄えていた北海道の歌志内市で教員をしていた両親に与えられた市政教員住宅に住んだ期間の話である。
私が誕生の頃から病弱で入退院を繰り返していた母の体調が何とか平常生活を普通に送ることが可能となり家族5人、父、母、二人の兄と私が始めて一緒に生活をする事になった時期がある。
それまでは私と兄達はそれぞれにあちらこちらの親戚宅に分けて預けられて世話をしてもらっていた。
家族がばらばらに離れて生活していたこと自体を悲しく淋しい環境に置かれていたと考えた事はない。
其々に預け育てられた家庭はどこも伯父や叔母、従兄弟達は皆それなりに優しかったし、両親や兄弟と生まれてから直ぐに離れ離れになり、年に数回顔を合わせるくらいの生活した事で、お互いが左程の親密感を得ないまま、それはそれなりに成立した家族関係であったのであろう。
もっとも私が産まれたての頃の記憶は皆無なので、後の母の話によると母が病院と自宅を行き来するその合間に、まだ5才になったばかりの幼い長男の兄が、ねんねこを引きずるほどに小さい背丈ながら赤ん坊の私を背中にくくり付けて日永お守りをしていたのだそうだ。 しかもその兄は体に少々の障害があって歩行が正常ではなかったのだ。この兄の体の障害についても母は姑にはカタワ者の家継ぎを産んだと随分責められたそうである。
自分が甘えたいさかりの子供が3才の弟と赤ん坊の私の世話をしなければならないのを見るのは情けなくて、悲しくてならなかったと母は後に私に聞かせる度に涙していたものだ。
長兄の体の障害に加え、もう今は殆どその障害は見出せないほどのものではあるが、次兄も私も足の骨に少々の異常があり、自身の体調不調を持ちながらの時々の育児と成長不足の通院はさぞかし大変であっただろうと察しられる。
 後年の医科学の進歩で知り得た我々の障害体質は父方の遺伝子に拠るものと知り、母があのように姑に責められたのはお門違いというものであったわけだが、母が何度も自殺を考えたことがあったというように、当時の姑嫁の関係はかなり厳しいのが当たり前のような時代背景もあったのだ。
そんな時期を越えて家族が全員一箇所に集った頃は強い家族愛を感じる事も無く、何となくギクシャク感が拭えない私は長い反抗期の中に鎮まっていて、時折母が涙ながらに話す辛い昔話も私にとっては、詰まるところは今の言葉で云う”思いっきりうざい”ものであったようだ。

母の病弱な体はもしかしてこの結婚生活での辛さや我慢やら、恨み、ツラミの思考とその言霊を通してもが澱になって体の内部に黒々とした沈殿層が出来ているかもしれないと、私は密かに母の人生を過去を一種に恐れも感じるようになっていたようだ。

私が母親を恋しいと感ずるようになったのは成人になって暫くしてからの事で、幼少年時には家族の繋がりというものには親身感を感ずるものだとは知らずに生きてきた。
 今思うと「何たる傲慢さ」と云わずにはおられないほどの、内向的で自意識過剰な子供であり、周りには一応の尊念は抱いてはいたが、生まれてからずっと精神的には独りで生きてきたかのように思い込んでいたところがあり、人との繋がりを求めない、心が少々、否、多分に傾き捩れ曲がっていただろう思われる節があり、家族も私の性格をとっつき難い変人の様に見ていたようだ。

母の両親は秋田地方から農業開拓者として昭和初期の雪深い北海道の田舎の地に入り細々と農地を耕し、自給自足のような貧困生活を送っていたそうだが、それでもその時代の蝦夷の地は人々はどこも似たりよったりな生活を営んでいたようである。
母の出生家は貧しい農家であったので、大正、昭和初期の貧困家庭では女の子は教育を受けるのは侭ならず、口減らしの意味も含め、高学年になると大抵が商家や庄屋宅などに女中奉公に出されたそうだが、母がそのような北国の貧困家庭の女としては珍しく高学教養を受けられたのは、当時の母の小学校担任が読書好きの彼女に学業を続けさせるために自分の養女にしたいと申し出のが幸いをしていた。
実生活的にはそれが真の意味に幸いであったのかどうかは別として、その担任教師宅の本棚に光り輝かんばかりに並んでいた沢山の文学書読みたさに、二つ返事でその申し出を受けたのだそうだ。
「女子に学問はいらない。それより子守や女中奉公に出て家族の助けになるのが女の務めだ」と云われて育ち、本を読んだりすると怒鳴りつけられるので、夜中にこっそり隠し持っていた教科書の類の本も月明かりで読んだりする文学少女の母はその独身担任教師の好意を少しの卑しさも疑わずに養女になったわけである。
実生活ではその担任教師は女中奉公にきてもらうのを条件で学費の世話をすると申し出たのだそうだが、母が東京実践女子大に在学中にその独身で若い養父が肺炎であっけなく急死を遂げ、養子縁組の意味もなく財産分けなど一切行われないまま風呂敷一個を持たされてその家を出されてしまったと云う。
学費源に窮した母はその当時の生家の次男ゆえ東京に養子に出されていた兄の力をかりてやっと何とか卒業単位を修得し、地元北海道に戻ることとなり、何をともあれ直ぐに教職についたのだそうだ。

敵国語禁止令が出る以前に大英国英語を取得した母が時折イギリス国歌をスラスラと斉唱し、口ずさんでいるのを何度か聞いた事がある。
昭和初期の東京での大学生活で英語弁論大会に選ばれて参加した事もあるそうだ。
そうして一時期は当時の女性には少なかった教員資格を生かして悠々生活を営んでいたのだが、周りからは’女先生’と呼ばれ、独身女性の自活生活を善しとしない風潮の時代であったことが彼女を強いて望んでもいなかった結婚生活に追い狭まれたというのが後の結婚生活という現状だったのだろう。

初勤務先は北海道の海辺の片田舎の小学校で、その小学校校長宅の一室が教員住宅仮部屋だったらしい。
彼女にとってはその小学校での教員生活は或る意味に独り身で自由を謳歌できたのかもしれないが、左程楽しいものではなかったらしい。
当時の女性が独りで自由に生きることに対しての周りからの風当たりが強く、そうも快適なはずもなく肩身の狭い状況であったという。
この時の母の生活で一番楽しく思えたのが校長宅前の小路に植えられた一連のフリージャーを愛でることであったらしい。
男尊女卑の真っ只中で校長や同僚、その家族らに辛くあたられてもこのフリージャーの小路に入ると嫌な事は何もかもどうでも良いことと跳ね返すエネルギーを感じずにはいられなかったのだそうだ。


その後、父と出会う機会を持つ小学校に転勤するまでの数年間はフリージャーの小路を心から愛した母は、いつか自分の家庭を持った時にはフリージャーの小路を作りたいと夢見てきたという。
父が同僚となった転勤先小学校には同僚教員に「氷点」で賞を取られ今では高名な日本作家の一人として数えられる三浦綾子女史(ご夫婦で教員をしておられたのだそうだ)がおられ、後年の母の葬儀には当女史から「お優しい方を亡くされて悲しい」との言葉を頂いた。

今母が側にいたとしたら、「私や優しい女なんかではないよ。ただあまり他の人達と関わりをもって生きた事がないので、人と付き合うのが苦手でね。」と云ったに違いない。 そしてそれは私自身の生活思考とまるで同じだ。
この母にしてこの子あり。体質の殆どが父似の私は思考的にはこの冷めているところは母によく似ていると思うのがもう他界して数年にもなるその時の母の年令をも越えた今現在の私である。

 冒頭の両親と暮らした教員住宅に母は念願のフリージャーを植えるべく父と一緒に住宅前の小路にズラリと一連の球根を植えたのだが、知ってか知らずかそれはフリージャーではなく、それに良く似たオレンジのトリトニアだった。
家からすぐ手前に建つ父が勤め、私が通った中学校までの短い小路は夏にはオレンジ色の丈の短いサクのような一連に咲く姿の花々は見事ではあったがそこに毎年咲くのが当たり前と思っていた子供の頃の私にはそう美しいものだと思ったことはなかったし、それが球根から育てられる両親のある種の想いや感慨などとはこれっぱかしも知らなかった。
これは何の花と問う私に母が一度だけ「うーん、これ、フリージャーじゃないのよねー」と云ったことがある。

数年後の父の転勤で空知地区中部の小学校の教員住宅に引っ越した頃には私は渡米した後であり、在米45年を過ぎて今の私にはその北海道空知教育委員会での学校名も土地名も判らなくなっているのだが、その後両親がその移転先の何処でもフリージャーを植えようとした事はもう無かったと思う。

 ただ当時体調が一時的に良くなっていた母は池坊の華道指導免許を取り父の部下教員のご夫人達に週2で教えていた時期がある。
「色々な花や木を使うけれど、個人の好みの花としては今でも私はやはりフリージャーが一番好き。春の花だもの」と言っていた。母の命日の二月が過ぎる今頃にやっとフリージャーが店頭に出されるだろう。 北海道の冬は長い。 

母の華道伝授名は「花水」である。 「これはカ・ス・イと読むのよ。綺麗な名でしょう。決してはなみず(鼻水)とは読まないでね。」と笑った母の顔をいつかフリージャーに重ねてみる私がここにいる。 2014年の春はもうそこに来ているだろうかとこのフロリダの空の下で遠く故郷の北国の春を想う。

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