9/25/2010

幼児を背負う夢

幼い子供を背負って家路につくというシチュエーションにおかれた夢を見た。
今となって、その子が女の子だったのか、男の子だったものかもはっきりしないのだが、それは幼い頃のクリステーナかデイビッドの感じがしていて、私自身が必死になって、半分寝ぼけでぐずるその子を「もうちょっと、もうちょっとだけの我慢よ。すぐにおんぶしてあげるからね。」と背負う紐つくりをしているのだった。
古い引き出しにあるだろうと思っていた男性用浴衣につけるへこ帯が幼児を背負うのには最適であると信じている私がその引き出しに見たものは、数本の女性用腰紐と、細いひも状の浴衣帯だけが残されていたのに失望して、タオルとブランケットを使用して自分で背負い帯を作ろうと試みたのだが、いざ子供を背に帯を回すと、とてもとても私の腰ぐるりをサポートするには短く、まるでショールのような長さにしかならない。
初めに、クリステーナがお気に入りの水色に黄色いアヒルが可愛いブランケットを3等分に切り裂き、それに幅のあるワインカラーのバスタオルをそれも3等分にしてそれぞれをつなぎあわせた。そのどちらももう古く、それらを使用して帯に利用しようとした事にあたっては、決してそれらの品がもったいないという気にはならなかったのは確かだ。
その地点、何かの会場らしく、係員の人が閉館の時間になった事を知らせに来て、そこから帰宅せねばならないという事態だった。
確かにそこへは車でいったはずなのだが、何故かそこから徒歩では1時間以上かかるかもしれない家路に子供を背負って帰ることを思い立ったのだった。
子供を安らかに背に寝せて、家路につくという事に自信があったものの、どうしてもその背負い帯が調達出来ないで、いらだっている私であった。
他の布を結びつけても、子供を背にいざ帯をまわすとどうしてもショールにしかならず、3度ほど子供を背にしてはおろし、背にしてはおろしの試行錯誤。
どうしても安心して使える背帯にはならないのであった。
結局子供を連れて家路に就くところまでに至らずに目覚めてしまった。
何だか、この夢が現在の私の試行錯誤子育て生活状態を表現したような気がしてならない。
今後いつかの夢で、大きく成長しても尚、背に感じられる私の孫達の現実がその夢の中ではちゃんと家路につく事とあいなるのだろうか。神ぞ知る。

9/21/2010

私的心と体の天気図 その3

先日お友達ブログで、加齢と供に音、騒音や物音に敏感になる話を読んでいて、私もこのところ正しく、音への感覚が変わってきている事に気がついていて、それは私独自の体験なのかと思っていたのが、他にも同じ意見をもっている人たちのコメントを読み、少し、いや、大分安心した。
私の最近は富に音波長を受けるのに敏感になってきているような気がする。
十代の頃、若者には珍しいといわれた老人性鼓膜難聴症で2年間程通院した体験を持つ私は、それゆえに老年期には難聴者になるだろうと懸念していたのだが、その意に相反して、耳障りな音だと人一倍敏感に聞こえてしまうようになった。
しかし、ある人の話では「いやいや、老人性難聴になる前というのは、得てして音に敏感になるらしいよ。古くなってきている脳細胞の最後の悪あがきのようなものかもしれない。」という事だそうな。
そうなのかもしれない、言われてみると、そのような気にもなる。

或る波調がオーバーラップしてか何かの残聴現象が私の頭脳と頭蓋骨を音感ボックスのような役割をさせているものなのだろうか。
今朝も先日と同じく、ヴィデオ動画で映画Sun of Empireサンドトラック曲“Suo Gun”を見聞きした後に台所で作動している皿洗い機の騒音をバックグランドに頭の中から同曲のはっきりした歌声が一連のビデオ音として数分に渡ってリピートされるのが聞こえた。
先日は他の音楽を同じく皿洗い機の騒音と供に、はっきりと頭の中に聞こえて、その時はPCのスピーカーから流れているものかと思い、PCの画面やら、スピーカーやらを調べたりしたのだった。
その音楽の残調は皿洗い機が作動中のみ聞こえてくるもので、それが止まると私の頭の中の音もしなくなるのだ。
私の脳部分が破壊されてしまっての狂気沙汰とは決して思えない理由として、今までにそれぞれが違う曲を、やはり同じ状態で3度ほど聞いている。

たった今ある事に気がついた。
それはこの春に奥歯3本を差し歯にすべく口内右下に1センチ程の3本のメタル棒が差し込まれたのだが、もしかして、そのメタルを媒介に顎から頭蓋骨に音波を伝えているのだろうか。
外部の皿洗い機の作動波がそのメタル棒に伝わり、脳内脳波と合い重なって、脳内のメモリーバンク細胞から引き出された音波が残聴として聞こえたものなのだろうか、、。
今現在は歯科通院始めた5月から、メタル棒が歯茎から突き出ている状態なのだが、来週にはこれの上にセラミックの歯がかぶされる事になっている。
さて、その3本のメタル棒状態のものが新しいセラミック歯になってしまった後も、果たして同じ残聴現象が私の頭の中に起るものなのだろうか。
これは私の不可思議な残聴現象の原因をより解りやすく解明出来る良い機会になりそうである。
今後歯の完治での、私の残聴症状にどのような変化が起きるのは候ご期待。(別に誰が何の期待などはしてはいないのに-まあ、今は自分にそう言っておきますか。)
しかし、私の脳細胞。難聴になる前ぶれ悪あがきはそれはそれで、ずっとあがき続けて欲しい。
全てに鈍感よりは、いつも何事にもまだまだ敏感でいたいものだと、私自身が悪あがきを捨て切れないで毎日を暮らしているのだから。

9/11/2010

続・いい話-心の買い物籠

続・いい話-心の買い物籠

今から5年も前に、その頃夜勤パートで最寄のドラッグストアに出ていた時に、そこで思いがけず、心を暖めてくれる出来事に出会った話を2005年のこのブログの記事にもした事がある。
今朝、特別な事があっての事ではなくて、ぶらりと外へ夫と供に食事に出た際に、今は日中勤務に変わって入るが、なおも勤め続けるその職場での体験を夫に話していて、これも一つに私の持つ「いい話」として書き残しておこうと思い立って、帰宅時にPCの前に座り直したのでした。

籠の中-残したい思い出と歌

「お名前からして、貴女は東洋人の様ですが、中国か日本の方かしら?」とその白髪の女性は柔和な笑顔を見せながら私のネームプレートから目を移して私に言った。
金曜日の午前は、薬局部で投薬を受けた帰りに寄る顧客以外の接客は少ないのが通常である。
「ええ、日本人です。私の名は日本ではどちらかと言えば、ありふれた名前なんですよ。」私は笑って答えた。
私が全部答えきらない前にそのご婦人は、一方の手を側のご主人らしき男性に伸ばしてそっと彼の肩におき、そしてもう片方の手を私の方に捧げるような仕草をしながら歌い出したのです。
「あの娘可愛やカンカン娘~~、赤い唇サンダル履い~て~、誰を待つやら銀座の街角、時計眺めてワクワク、ニヤニヤ、これが~私の~東京カンカン娘~~」
少し内容歌詞が間違っているのは戦後生まれの私にも解りましたが、そんな事はどうでも良いように思えるほど、ご婦人は一生懸命に歌っているのでした。

このフロリダ州にも大勢の日本人が住んでおりますが、ハワイや米国西海岸のカリフォルニア州近辺ほど多くの日本人は在住していませんし、ましてやマイアミから少し離れたこの新興都市ペンブルックパインには、しかもこの手のチェーンドラッグストア勤務の日本人は数少なく、もの珍しさをおぼえるものかもしれません。
多種民族移住地であるにもかかわらず、米国西海岸州よりこちらの東海岸州は、未だに民種差別感覚も残っていて、まだまだ保守的な社会性にあり、黒人解放運動が盛んに繰り広げられたのも、つい30年程の歴史しかないわけですから、加え、各国多種民族の習慣文化も引き続かれており、思想的にも感情的にも他民族受け入れ態勢はこの先進国としては未だ闇の病を患っているかの社会であるのかもしれません。

歌うご婦人の後に客が並んでいないのを見計らった私は、一曲歌い終わって、リピートで2曲目に入るのを知り、それではと、私も一緒に歌い出しました。
「あの娘可愛やカンカン娘~~~」
そんなに大声ではありませんでしたが、歌声を聞きつけてか、2,3人の客がレジにやって来て私達の歌うのを笑顔で見ているのでした。
その2曲目が終わった時、ご婦人は私を含め、回りで見ている人達に優しい声でこの歌の思い出を話し出しました。
「私は今82才なの。50年も昔にハワイに住んでいた事があって、そこでは日本人の女性が私の親友だったわけ。でも、その頃は白人の私が日本人のスミコ・私の親友の名前なんだけれど、一緒に仲良くしてはいけない雰囲気があって、色々あったのだけれど、私達には人種差別なんて関係がなかったわ。スミコがね、この歌をよく歌ってて、私にも教えてくれたのよ。あと3曲位の日本の歌を知っているわ私。で、つい先日ね、私もこの老い先そう長くはないだろうと思って、そしてどうしてもこの歌とスミコの思い出を語れるうちに記録しておかねばならないような気になって、テープに録音したのよ。そしてね、この人(ご主人を見ながら)に人間愛と友情とについて教会で時々話してもらう事にしたの。」
そこまでで、他の接客に当たらなければならない私はその話と歌にお礼を言って通常勤務に戻ったのですが、そのご婦人とご主人はその時一緒に話を聞いていた方達と暫くお話を続けていました。
私の接客が少し忙しくなってきた頃、私の耳にお互いが交わされた挨拶言葉が届きました。
「今日貴女方に会えたのは幸運でした。是非そちらへ伺って、他の日本の歌も聞かせて下さい。」「ええ、いつでも、いらして下さい。」

その日、帰宅後何故か私は「エンパイアー・オブ・サン」の映画の一シーンを思いました。
そして、それは私にとっては、多分あのご婦人が他民族の親友に感じたようなものと同じように、哀しくも人種を超えた人間愛を充分に感じさせるものでもあったのでした。

9/06/2010

"へらんぱん”の話

年を取ると過去のことばかりが思いやられるというのは、至極当然の事ではあるまいか。
人生の途、行く先には広い川が見え始め、振り返ると今まで通ってきた長い道がそこにはあって、途中には色とりどりの花がさいていたようだし、虫や獣も現れたりで、あちらこちらに寄り道したり、ある時は猛突直進したり、恐れおののいて道からその外枠に隠れようとしたり、事あるその度々に右往左往して、とうとうここまでやって来たのだとの思いがある。

“へらんぱん”今朝、ふと脳裏に浮かんだ言葉である。
“へらんぱん”というのは、多分今となっては私個人が記憶に残した言葉にすぎないのだが。“へらんぱん”
終戦ん直後の産まれである。日本はまだまだ貧しく、幼い私には白装束に兵帽の復員兵を見るたびに、それが不気味な死と苦悩の世界からのメッセンジャーのようで、得たいの知れぬ恐怖の的として映っていた。
当時教員をしていた私の父と、父の兄である伯父はそれぞれの健康上の欠陥から招兵されずに戦場に向かうことはなかったが、母方の叔母の夫が復員兵であり、我が家に来ては、南国での戦場生活の話をしていたのを聞くとはなしに、その凄まじくおぞましい体験談を何度も耳にしていた。
当時の子供達の娯楽は、そのような身内の体験談を聞かされる事や、まわし読みして彼方此方が破れている漫画本であったり、その本の付録だったらしきトランプカードや私の二人の兄達が興じるパッチと呼ばれる土に描かれた丸枠が土俵のめんこゲームだったりした。
無論テレビはその後ずっと後年に普及したものであり、家族が集って聞くラジオ番組も“3つの鐘”という素人歌謡コンクールだったり、「真実は奇なり」という言葉で開けられる“秘密の扉”なるゲーム番組だったりした。

今はとうの昔に閉校になっている小学校に、僻地慰問目的らしき団体、又は個人がやって来ては手品やら、合唱団やらが娯楽の少ない当時の子供達を喜ばせてくれた。
その中でも、一人の話家が桃太郎と金太郎を足して2で割ったようなヒーローの話をしてくれたのだが、話筋の殆どがどうであったものやら覚えていないのに、何故かそのヒーローが“へらんぱん”なる、食べても決してなくなる事のないパンをもっていた事に、余程食いしん坊だったものか、幼い私は衝撃をうけたのかも知れない。
その後、渡米生活を送る私は、もはや浦島花子的存在となって日本の文化、流行、新世代生活から遠のいてしまい、次に“へらんぱん”という言葉を思い出したのは、日本の子供達の間では「アンパンマン」なるパン顔がヒーローの漫画が人気になっているらしいとの情報が伝わってきた時であった。
とすると、パンはやはり昔も今も子供には何やら平穏安堵感を持たせる力がある食品なのだろうか、などと半ば可笑しく、半ば懐かしく日本の食文化を思った私であった。
それがどうして今朝目覚めて、“へらんぱん”という言葉が脳裏に浮かんだのは何を思っての事なのかは定かではないが、ただ、帰化アメリカ人となって在米40数年たった今でさえ、やはり私は自分の原点は日本であるのだと、事あるごとに思い知る年令になったという事は確かな事であり、そして私の今は戻る事の無い過去の生活がふと、思い出される事で、今なお日本人でありたいという慕情と、故郷への恋慕として表れ出てくるのである。
それにしても、今朝は何故“へらんぱん”であったのだろうか