9/25/2010

幼児を背負う夢

幼い子供を背負って家路につくというシチュエーションにおかれた夢を見た。
今となって、その子が女の子だったのか、男の子だったものかもはっきりしないのだが、それは幼い頃のクリステーナかデイビッドの感じがしていて、私自身が必死になって、半分寝ぼけでぐずるその子を「もうちょっと、もうちょっとだけの我慢よ。すぐにおんぶしてあげるからね。」と背負う紐つくりをしているのだった。
古い引き出しにあるだろうと思っていた男性用浴衣につけるへこ帯が幼児を背負うのには最適であると信じている私がその引き出しに見たものは、数本の女性用腰紐と、細いひも状の浴衣帯だけが残されていたのに失望して、タオルとブランケットを使用して自分で背負い帯を作ろうと試みたのだが、いざ子供を背に帯を回すと、とてもとても私の腰ぐるりをサポートするには短く、まるでショールのような長さにしかならない。
初めに、クリステーナがお気に入りの水色に黄色いアヒルが可愛いブランケットを3等分に切り裂き、それに幅のあるワインカラーのバスタオルをそれも3等分にしてそれぞれをつなぎあわせた。そのどちらももう古く、それらを使用して帯に利用しようとした事にあたっては、決してそれらの品がもったいないという気にはならなかったのは確かだ。
その地点、何かの会場らしく、係員の人が閉館の時間になった事を知らせに来て、そこから帰宅せねばならないという事態だった。
確かにそこへは車でいったはずなのだが、何故かそこから徒歩では1時間以上かかるかもしれない家路に子供を背負って帰ることを思い立ったのだった。
子供を安らかに背に寝せて、家路につくという事に自信があったものの、どうしてもその背負い帯が調達出来ないで、いらだっている私であった。
他の布を結びつけても、子供を背にいざ帯をまわすとどうしてもショールにしかならず、3度ほど子供を背にしてはおろし、背にしてはおろしの試行錯誤。
どうしても安心して使える背帯にはならないのであった。
結局子供を連れて家路に就くところまでに至らずに目覚めてしまった。
何だか、この夢が現在の私の試行錯誤子育て生活状態を表現したような気がしてならない。
今後いつかの夢で、大きく成長しても尚、背に感じられる私の孫達の現実がその夢の中ではちゃんと家路につく事とあいなるのだろうか。神ぞ知る。

9/21/2010

私的心と体の天気図 その3

先日お友達ブログで、加齢と供に音、騒音や物音に敏感になる話を読んでいて、私もこのところ正しく、音への感覚が変わってきている事に気がついていて、それは私独自の体験なのかと思っていたのが、他にも同じ意見をもっている人たちのコメントを読み、少し、いや、大分安心した。
私の最近は富に音波長を受けるのに敏感になってきているような気がする。
十代の頃、若者には珍しいといわれた老人性鼓膜難聴症で2年間程通院した体験を持つ私は、それゆえに老年期には難聴者になるだろうと懸念していたのだが、その意に相反して、耳障りな音だと人一倍敏感に聞こえてしまうようになった。
しかし、ある人の話では「いやいや、老人性難聴になる前というのは、得てして音に敏感になるらしいよ。古くなってきている脳細胞の最後の悪あがきのようなものかもしれない。」という事だそうな。
そうなのかもしれない、言われてみると、そのような気にもなる。

或る波調がオーバーラップしてか何かの残聴現象が私の頭脳と頭蓋骨を音感ボックスのような役割をさせているものなのだろうか。
今朝も先日と同じく、ヴィデオ動画で映画Sun of Empireサンドトラック曲“Suo Gun”を見聞きした後に台所で作動している皿洗い機の騒音をバックグランドに頭の中から同曲のはっきりした歌声が一連のビデオ音として数分に渡ってリピートされるのが聞こえた。
先日は他の音楽を同じく皿洗い機の騒音と供に、はっきりと頭の中に聞こえて、その時はPCのスピーカーから流れているものかと思い、PCの画面やら、スピーカーやらを調べたりしたのだった。
その音楽の残調は皿洗い機が作動中のみ聞こえてくるもので、それが止まると私の頭の中の音もしなくなるのだ。
私の脳部分が破壊されてしまっての狂気沙汰とは決して思えない理由として、今までにそれぞれが違う曲を、やはり同じ状態で3度ほど聞いている。

たった今ある事に気がついた。
それはこの春に奥歯3本を差し歯にすべく口内右下に1センチ程の3本のメタル棒が差し込まれたのだが、もしかして、そのメタルを媒介に顎から頭蓋骨に音波を伝えているのだろうか。
外部の皿洗い機の作動波がそのメタル棒に伝わり、脳内脳波と合い重なって、脳内のメモリーバンク細胞から引き出された音波が残聴として聞こえたものなのだろうか、、。
今現在は歯科通院始めた5月から、メタル棒が歯茎から突き出ている状態なのだが、来週にはこれの上にセラミックの歯がかぶされる事になっている。
さて、その3本のメタル棒状態のものが新しいセラミック歯になってしまった後も、果たして同じ残聴現象が私の頭の中に起るものなのだろうか。
これは私の不可思議な残聴現象の原因をより解りやすく解明出来る良い機会になりそうである。
今後歯の完治での、私の残聴症状にどのような変化が起きるのは候ご期待。(別に誰が何の期待などはしてはいないのに-まあ、今は自分にそう言っておきますか。)
しかし、私の脳細胞。難聴になる前ぶれ悪あがきはそれはそれで、ずっとあがき続けて欲しい。
全てに鈍感よりは、いつも何事にもまだまだ敏感でいたいものだと、私自身が悪あがきを捨て切れないで毎日を暮らしているのだから。

9/11/2010

続・いい話-心の買い物籠

続・いい話-心の買い物籠

今から5年も前に、その頃夜勤パートで最寄のドラッグストアに出ていた時に、そこで思いがけず、心を暖めてくれる出来事に出会った話を2005年のこのブログの記事にもした事がある。
今朝、特別な事があっての事ではなくて、ぶらりと外へ夫と供に食事に出た際に、今は日中勤務に変わって入るが、なおも勤め続けるその職場での体験を夫に話していて、これも一つに私の持つ「いい話」として書き残しておこうと思い立って、帰宅時にPCの前に座り直したのでした。

籠の中-残したい思い出と歌

「お名前からして、貴女は東洋人の様ですが、中国か日本の方かしら?」とその白髪の女性は柔和な笑顔を見せながら私のネームプレートから目を移して私に言った。
金曜日の午前は、薬局部で投薬を受けた帰りに寄る顧客以外の接客は少ないのが通常である。
「ええ、日本人です。私の名は日本ではどちらかと言えば、ありふれた名前なんですよ。」私は笑って答えた。
私が全部答えきらない前にそのご婦人は、一方の手を側のご主人らしき男性に伸ばしてそっと彼の肩におき、そしてもう片方の手を私の方に捧げるような仕草をしながら歌い出したのです。
「あの娘可愛やカンカン娘~~、赤い唇サンダル履い~て~、誰を待つやら銀座の街角、時計眺めてワクワク、ニヤニヤ、これが~私の~東京カンカン娘~~」
少し内容歌詞が間違っているのは戦後生まれの私にも解りましたが、そんな事はどうでも良いように思えるほど、ご婦人は一生懸命に歌っているのでした。

このフロリダ州にも大勢の日本人が住んでおりますが、ハワイや米国西海岸のカリフォルニア州近辺ほど多くの日本人は在住していませんし、ましてやマイアミから少し離れたこの新興都市ペンブルックパインには、しかもこの手のチェーンドラッグストア勤務の日本人は数少なく、もの珍しさをおぼえるものかもしれません。
多種民族移住地であるにもかかわらず、米国西海岸州よりこちらの東海岸州は、未だに民種差別感覚も残っていて、まだまだ保守的な社会性にあり、黒人解放運動が盛んに繰り広げられたのも、つい30年程の歴史しかないわけですから、加え、各国多種民族の習慣文化も引き続かれており、思想的にも感情的にも他民族受け入れ態勢はこの先進国としては未だ闇の病を患っているかの社会であるのかもしれません。

歌うご婦人の後に客が並んでいないのを見計らった私は、一曲歌い終わって、リピートで2曲目に入るのを知り、それではと、私も一緒に歌い出しました。
「あの娘可愛やカンカン娘~~~」
そんなに大声ではありませんでしたが、歌声を聞きつけてか、2,3人の客がレジにやって来て私達の歌うのを笑顔で見ているのでした。
その2曲目が終わった時、ご婦人は私を含め、回りで見ている人達に優しい声でこの歌の思い出を話し出しました。
「私は今82才なの。50年も昔にハワイに住んでいた事があって、そこでは日本人の女性が私の親友だったわけ。でも、その頃は白人の私が日本人のスミコ・私の親友の名前なんだけれど、一緒に仲良くしてはいけない雰囲気があって、色々あったのだけれど、私達には人種差別なんて関係がなかったわ。スミコがね、この歌をよく歌ってて、私にも教えてくれたのよ。あと3曲位の日本の歌を知っているわ私。で、つい先日ね、私もこの老い先そう長くはないだろうと思って、そしてどうしてもこの歌とスミコの思い出を語れるうちに記録しておかねばならないような気になって、テープに録音したのよ。そしてね、この人(ご主人を見ながら)に人間愛と友情とについて教会で時々話してもらう事にしたの。」
そこまでで、他の接客に当たらなければならない私はその話と歌にお礼を言って通常勤務に戻ったのですが、そのご婦人とご主人はその時一緒に話を聞いていた方達と暫くお話を続けていました。
私の接客が少し忙しくなってきた頃、私の耳にお互いが交わされた挨拶言葉が届きました。
「今日貴女方に会えたのは幸運でした。是非そちらへ伺って、他の日本の歌も聞かせて下さい。」「ええ、いつでも、いらして下さい。」

その日、帰宅後何故か私は「エンパイアー・オブ・サン」の映画の一シーンを思いました。
そして、それは私にとっては、多分あのご婦人が他民族の親友に感じたようなものと同じように、哀しくも人種を超えた人間愛を充分に感じさせるものでもあったのでした。

9/06/2010

"へらんぱん”の話

年を取ると過去のことばかりが思いやられるというのは、至極当然の事ではあるまいか。
人生の途、行く先には広い川が見え始め、振り返ると今まで通ってきた長い道がそこにはあって、途中には色とりどりの花がさいていたようだし、虫や獣も現れたりで、あちらこちらに寄り道したり、ある時は猛突直進したり、恐れおののいて道からその外枠に隠れようとしたり、事あるその度々に右往左往して、とうとうここまでやって来たのだとの思いがある。

“へらんぱん”今朝、ふと脳裏に浮かんだ言葉である。
“へらんぱん”というのは、多分今となっては私個人が記憶に残した言葉にすぎないのだが。“へらんぱん”
終戦ん直後の産まれである。日本はまだまだ貧しく、幼い私には白装束に兵帽の復員兵を見るたびに、それが不気味な死と苦悩の世界からのメッセンジャーのようで、得たいの知れぬ恐怖の的として映っていた。
当時教員をしていた私の父と、父の兄である伯父はそれぞれの健康上の欠陥から招兵されずに戦場に向かうことはなかったが、母方の叔母の夫が復員兵であり、我が家に来ては、南国での戦場生活の話をしていたのを聞くとはなしに、その凄まじくおぞましい体験談を何度も耳にしていた。
当時の子供達の娯楽は、そのような身内の体験談を聞かされる事や、まわし読みして彼方此方が破れている漫画本であったり、その本の付録だったらしきトランプカードや私の二人の兄達が興じるパッチと呼ばれる土に描かれた丸枠が土俵のめんこゲームだったりした。
無論テレビはその後ずっと後年に普及したものであり、家族が集って聞くラジオ番組も“3つの鐘”という素人歌謡コンクールだったり、「真実は奇なり」という言葉で開けられる“秘密の扉”なるゲーム番組だったりした。

今はとうの昔に閉校になっている小学校に、僻地慰問目的らしき団体、又は個人がやって来ては手品やら、合唱団やらが娯楽の少ない当時の子供達を喜ばせてくれた。
その中でも、一人の話家が桃太郎と金太郎を足して2で割ったようなヒーローの話をしてくれたのだが、話筋の殆どがどうであったものやら覚えていないのに、何故かそのヒーローが“へらんぱん”なる、食べても決してなくなる事のないパンをもっていた事に、余程食いしん坊だったものか、幼い私は衝撃をうけたのかも知れない。
その後、渡米生活を送る私は、もはや浦島花子的存在となって日本の文化、流行、新世代生活から遠のいてしまい、次に“へらんぱん”という言葉を思い出したのは、日本の子供達の間では「アンパンマン」なるパン顔がヒーローの漫画が人気になっているらしいとの情報が伝わってきた時であった。
とすると、パンはやはり昔も今も子供には何やら平穏安堵感を持たせる力がある食品なのだろうか、などと半ば可笑しく、半ば懐かしく日本の食文化を思った私であった。
それがどうして今朝目覚めて、“へらんぱん”という言葉が脳裏に浮かんだのは何を思っての事なのかは定かではないが、ただ、帰化アメリカ人となって在米40数年たった今でさえ、やはり私は自分の原点は日本であるのだと、事あるごとに思い知る年令になったという事は確かな事であり、そして私の今は戻る事の無い過去の生活がふと、思い出される事で、今なお日本人でありたいという慕情と、故郷への恋慕として表れ出てくるのである。
それにしても、今朝は何故“へらんぱん”であったのだろうか

8/30/2010

行動と責任

先週ある式典会場でちょっと面白いお話をして下さった方がいらしたので、その小話の覚えている限りをここに記したいと思います。

ある何処か遠い国の小さな村人達のお話です。
一人の老人とその未だ幼い子供がロバを牽いて、未来の安住の地に向かって歩いておりました。
とある村にさしかかると、村人達がこの二人の旅人を指差し、笑って言いました。
「せっかくロバを牽いているのに、何故老人の貴方は歩いているのですか。愚かな行動だとはこの事です!」
そこで老人はロバの背に乗り、子供にロバを牽かせて先を進みました。
次の村にさしかかった時、その村人達がこの二人の旅人を指差し、笑って言いました。「貴方とあろう方が、その幼い子供を歩かせて自分は悠々ロバに乗っているとは愚かな行動です!」
そこで老人はロバの背から降り、変わりにその幼い子供をロバの背に乗せ、先を進む事にしました。
またその次の村に入ると、その村人達はこの二人の旅人を指差し、笑って言いました。「ロバは物を運ぶ動物なのに、何故一人はそうやって歩いているのは愚かな行動だと思いませんか!」
そこで今度はロバの背の幼い子供の後ろに老人も乗ることにして、先を進みました。
また、また次の村に来た時はその村人達がこの二人の旅人を指差し、笑っていいました。「何と可愛そうに、ロバは二人もの人間を背に運ばされているではないか。ロバは貴方達には唯一の宝だとしたら何故このロバを二人で抱えて歩いてはどうなのですか。愚かな旅人だ!」
そこで、老人と子供はロバから降り、二人でロバを抱えて先へ進むことにしました。
すると、目の前に遠浅な川が開けていて、二人の抱えていたロバの背を濡らし、驚いたロバは二人の腕から飛び降りて図らずも水に溺れてしまいました。
老人と子供は大事な宝が水に溺れてしまったので、そこで大泣きして言いました。
「私達は何と愚かだったのだろう。もしいままでの多々の知らない村人達の言葉を鵜呑みにしてその通りにしてこなかったら、このように大事な宝を失う事も無かっただろうに。自分達の道は自分達で選び進む事が寛容であると思った時はもう遅いではないか。これからは他人の意見はあくまでも自分の人生に於いては思慮に入れて行動するのが妥当であり、自分の行動は自分の責任で将来を進んで行こうではないか。自分の考えを育てる事こそ宝を失わず、増やす事につながるのだから。」

8/21/2010

もっとも長い朝

一昨夜から昨日にかけて、私の人生でもっとも境苦に苛まされた長い朝を体験しました。
これを書くにあったって、私達家族構成の羞恥部を語るようで、ためらいましたが、私を知る多くの方々が私の人生観に共調してくれて、励ましてくださっているのを思うと、やはり書くことが私に出来る日頃の感謝の念なのかも知れないと、ここに記する事にしました。

一昨日の夜、午前3時半頃に一番下の孫息子Davidが寝室へ来て私達夫婦を起こしたのです。
手には誰かと通話中の携帯を持ち、私達の方へさしだしていました。
「ロビーが話したいって。クリスティーナが音信不通になって、何処に行ったのか行方がわからないんだって」
ぼんやりと未だ眠りのそこから這い出したわけでもない私の頭は、彼の云っている意味をはっきりとは理解できずにいて、そんな時間に電話をしてきた人間に嫌悪を感じていたのでした。
ともかくも、渡された電話を耳にあてると、相手の声も私達と話す緊張と今彼自身が感じている得体の知れない不安の為とで、震えているのが解るのでした。
「本当にこんな夜分に申し訳ないと思いましたが、どうしても彼女の事が心配でお宅に連絡をしてしまいました。昨日半日を彼女はベビーシッターに出掛けたのはご存知だと思いますが、夜11時15分に彼女の電話で『今、ベビーシッターが終わって帰宅するところよ。家に着いたらまた私の部屋から無事到着をテルするから心配しないでね。』と、それで彼女からの電話をずっと自宅で待っていたのですけれど、今午前3時を過ぎたのにまだ連絡がありません。ベビーシッター宅から彼女の家までは車で30分もかからないはずですから、12時を過ぎても電話が無いので何度もこちらから電話をしたり、テックスを送ったのですが全部留守電に直通してしまいます。今までには一日何度も連絡しあっていますからこんな事は一度もありませんでした。彼女が何か事故か事件に巻き込まれたのではないかと、不安でなりません。それで今そちらにご相談の電話を入れたのです」
事の次第を呑み込むまでには何度も繰り返し彼の言葉を聞いたようでした。
彼の云う彼女とは私達夫婦の18才の孫娘クリスティーナの事です。
何と返答してよいものやら考えも浮かばずに電話を側の夫に手渡し、またロビーが夫に同じ言葉を繰り返し説明したわけです。

ロビーは、現在のクリステーナのボーイフレンドで、昨年に不慮の死別を強いられた彼女の元彼マイルズ君の親友であった男性です。
夫は彼の言葉に落ち着いた様子で伝えました。「彼女は先月女友達の家で映画パーティーに出掛けて外泊した事がありますが、その時は君には連絡していたようですが、私達家族には何の連絡も無かった事を思うと、今日も君には連絡無しに親友宅に出掛けたのかもしれませんね。え、もう彼女の友人宅には連絡済みなのですか。何処にも行った形跡はない?しかし、音信を絶って4時間もたってません。もう少し様子を見ましょう。今私達に出来ることはありません。」

私は不安な気持ちが一杯になって、階下に降り、息子の夜勤先航空会社に電話を入れたのですが、丁度フライト点検時であり彼の携帯にメッセージを入れるのみに終わり、さて、もしかしてベビーシッター宅からすぐ隣町のママの所に何か相談に行ったのかもしれないと思って、ママの方にも電話を入れたのですが、彼女は普段から電話を取らない人なので、これまた連絡がつきませんでした。
先月にクリステーナの車の故障を直すのに4500ドルほどついやしたばかりで、来週から始まる彼女の大学寮生活には一万ドル以上も出費があり、彼女は少なくとも私達夫婦に負い目を感じていたのです。
そしてそれほどの出費で補修したにも関わらず、先週にはまた彼女のエクスペディションは完全エンジン停止をしてしまい、またもや補修出費に迫られていた矢先でした。
彼女の両親はといえば、私達の息子は同居していることもあり、月々私達に2000ドルを支払っており、それ以上の出費は私達夫婦が全面的に扶養しているのですが、孫3人の母親は一セントの扶養もなく、法律でさだめられた離婚協議約からすると私達への支払いはもう500万ドル以上の負債を抱えている事になっていて、私達は決してそれを取り立てる裁判などを起こすつもりは毛頭になく、只、少しは子供達の教育費や健康医療費等には少しの協力扶養があっても当たり前なのではないかと私は憤懣やるかたない思いなのは確かなのです。

それで、この週末には大学寮生活に入る事での何か相談事でもママに話しに行った可能性もあるかしらんと考えた私でしたが、日頃の彼女からして、母親をそれまでにも頼りにした事がなかった事もあって、やはりそれは私だけの期待のような思いであった事を知りました。

車の故障で、私のワゴンを運転して出掛けた彼女は、私が翌朝8時には出勤する為に車を私にもどさなくてはならない事を充分に承知の上での外出でしたので、その朝の午前6時にもまだ帰宅していない彼女に夫もいよいよその事の重大さを感じ、行方不明者捜査願いを911警察連絡をいれたのでした。
そのうちメッセージを受けた息子も帰宅、それと同時に2台のパトカーで捜査調査員ポリスがやって来ました。
家族全員と携帯連絡でロビーが、それぞれに事の次第と彼女の動き、自身の情報をポリスはその場でコンピューターに入れて、一時間以内にはアンバーアラート(行方不明者捜査以来)が全域に通報されました。
その時私達家族がどのような思いで彼女の体の特徴や、最後に着ていた衣類の状態、彼女の歯医者の番号で歯型依頼をする手続き、そして彼女の最近の顔写真ーこれは卒業式での写真でしたが、それらを情報に語ったのかを知りえましょうか。
午前8時を過ぎても帰宅しない彼女に、皆の頭にはそれぞれにとても恐ろしい思いが湧いていました。
夫は後に私に言ったのは、このフロリダ近辺一帯がワニなどが凄む湿地運河があるので、彼女が事故で車ともここにはまってしまっているのでは、、と思ったらしく、又私は時折”この人に見覚えありませんか”とミルク箱に載っている行方不明者写真が、私がポリスに手渡した卒業ガウンをまとった彼女の顔が一瞬見えたようで、暗澹な思いでそこにたっていたのでした。

一人のポリスは本庁報告の為去り、そして残るもう一人のポリスも調書が終了し今日のところはこれまでと、今や去ろうとしている時でした。
何と、当のクリステーナが私の車でガレージに乗り付けたのです!!
午前8時20分程。「クリステーナ!!無事だったのね!!」私は車に走り寄り、彼女が差し出したてを握って、声を出して泣きました。
彼女の手をさすり、「貴女というひとは~~!!!」と何度も、何度も言って泣きました。
息子がポリスカーの側から大声で彼女に向かって叫びました。「馬鹿者!!何処へ行っていたのだ!!皆がどれだけ心配したと思ってるのかオマエ!!!」
夫は何も云えずに、ただ涙目で立っていました。
携帯電話でロビーと連続交信中のデビッドは「帰ってきたよオ~、何にもなかったみたい。」
私が大泣きしているのを見て、彼女も泣き出してながら「え!何!何があったの?皆大丈夫なの?どうしたの?何なの?」家族とポリスカーの総動員にうろたえるばかりなのでした。

私は彼女の無事を知り、ポリスがアンバーアラートを撤回連絡しているのを見た時、私はその場に立っている事が出来ずに、家の中に走り返り、椅子に寄りかかって安堵の一泣きしたのでした。

これが彼女の言い訳でしたー

ベビーシッターが終わって、ロビー「にこれから帰宅するから、家に戻ったらまたテルするね」と云ったのは確かだけれど、帰宅中に大学寮のルームメートから電話が入って、今日入寮したから部屋を見にいらっしゃいと云ったの。私達の最初の話約束ではニューヨークからきている彼女が一番早く入って、翌日の金曜に私が入る予定だったのは知ってるでしょう?でも、私は他の都合もあって結局日曜日になったんだけど、彼女が私が2日延ばしたのでちょっと淋しいなんて云うし、だったらちょっと慰めに寄ってあげようかなと思ったの。ロビーに連絡しようと思ったけど、携帯の電源が切れてしまったし、寮に着いたのは12時を過ぎていたから、皆に連絡するのも遅いから迷惑だろうと思って、ルームメートとこれからの大学寮生活の話をしているうちに眠くなっちゃて、それに、本当のところは私が入寮するのが2日伸びただけの話だから、私がそこに一時泊まっても結局誰にも異存は無いと思ったのよ。グランマが8時までに出勤するのに車が必要だという事は知っていたので、朝起きて急いで、運転してきたのだけれど、マイアミの朝の渋滞に時間に間に合わなかったの。でも、ダデイが朝早く帰宅しているのもわかってたから、ダデイがグランマを連れて行ってくれると思ってたし、、、。
私の安易な考えが皆に迷惑かけたのは本当に誤ります。でも、そんなに悪い事しているといった思いはまったく無かった事は理解して欲しい。」

嗚呼、恐るべきはティーンェジャーの浅はかさ、自己中精神。
その後、夫は大学北キャンパスで行なわれた大事な会議には参加できず、しかしそれから自分の仕事をかたずけるべく出勤していったのでした。
私は私で、出勤先に連絡を入れると、支店長が優しくその日を私の定休連休とあわせてくださり支店長も13才の女の子を持つ母親として私の気持ちを思い、その忌むべき体験から回復するようと言ってくれたのでした。
日に日に、先が短く感じる現在の私ですが、これが一生でもっとも長い朝であったと思います。
もう2度とこの様な体験は願い下げです。

7/31/2010

老いの朝

左腰の圧痛に体を少しずらしてみる。
右膝にも鈍痛が走っている。
加齢と共に関節痛が私の体をえんりょう容赦無しにあちらこちらに現れるようになってきた。
そして、私の中にまた少し哀しみが増してきたような感覚を覚えて今日も目覚めた。
関節炎、神経痛は往々にして遺伝要因が成せる病状らしい。
その痛みを抑えることや進行状態を遅らせる事は可能だが、完全完治治癒と言うものは無いらしい。
老いるという事をこういう少しずつの体の変化からも充分見て取れる年令に自分がなったのだと今日も、当然至極の人間の生き様であるはずを,今更改めて考える事でもないのに、毎朝同じ事を思う私の一日の始まりがある。
「奇跡とは起こるものだから、奇跡と言う言葉があるのだ」と何方かが云ったと言うけれど、さしあたって、私の現状に当てはまるとも到底思われない。
加齢とはそういうものなのだ。
かといって、決して努々若かった頃の自分に戻りたいなどと考える訳ではない。
あるがままを受け入れて、それなりの一日を対応して、順応していかねばならないのだと気に命じている。
昔はああだった、こうだったと過去の自分の生活に囚われて、周りから煙たがれるのがオチという人間には成るまいと日ごろ思いつつも、そこは愚かな人間の性で、つい過去の奇麗事を並べてしまう自分にも充分気が付いている。
そして、それもこれも全てが老いの症状なのだ。

たった今書いた数行を読み返してみても、これは女性が書いているものだとは思われないだろうと、ふと思った。
これも、老化現象の一つなのだろうか。女性本来の感情や感覚そしてその表現にすら、きめ細かな繊細さを想わせるものは省かれ、どの文面にもモノセックス化された響きをもたせてしまうようになった。
いつごろからだろう。
多分、女としての恋情というか、人を恋慕の想いで見る事に自分成りの抵抗を感じるとか、何か後ろめたさを覚えるとか、そういった感情が心の内に澱のように沈んでいるのを感じるようになった頃からだと思う。
心理学者に言わせたら、というより、医学的に説明がなされる、それは体内ホルモンと脳活動のせいだろう。それを老化現象と一言でかたずけられるものもに違いない。

もう7年間にも及ぶが、50代に入ってのある時期に、それぞれの時期はずれてはいたけれど、ある数名の男性達からの依頼もあって、私は数々の詩を書いた。
東洋人である私の素性を理解し得ないこの国の男性には私のそのジェネレーションを飛び越えてのつたない、幼稚な文が新鮮で、摩訶不思議に思えたのだろう。
彼らは私の詩を読んでは、一喜一憂し、自己の生活に正直に生きようとその時を懸命に生きる道を選択していたようだ。
多分にそれは、この国の人間は年間を通して誕生カードや何かにつけてはカードを送り、受けをする習慣があり、その多額の年間売り上げでも証明されているように、単刀直入な文、標語的、短文や詩的表現が好きなのだろうと思う。
私の幼稚文を彼らの心は、すんなりと受け入れる体制が元々備えられてあったのだろう。
しかし、今現在の私にはその種の詩を書くことにもいくばくかの抵抗を感じてきているのだ。
あと数ヶ月で老後保険金が国から支給されるであろう年令に達した私を、その無能幼稚文が為に私のファンとしてのそのような甘い感傷と共に私個人が女性視されていることが、今の私には少なからず重荷になってきているのだ。
いや、違う。もっと本音で言えば、周りの思惑とは裏腹に、自分が老いて中性化してきたのを感じ、大いにおそれている自分を知るのが嫌なのだ。
ある女優が愛する人に云ったと言う。「私は死ぬまで女性です。いえ、死んだ後さえもずっと、ずっと女性です。」
私は、実際、そういい切れる彼女が羨ましいと思う。
これはその女性の老いての言葉だったのだろうか。私にはそうとは思えないのだけれど。
一体彼女はずっと、更にずっと老後にも同じ言葉を繰り返しただろうか。
そしてその彼女の老いた体、足腰に、いかほどもの痛みはなかったのだろうか。
心に痛みは無く平穏であったかもしれない、が、己の老いた肉体の痛みは彼女の過去の多くを否定して彼女を苦しめなかったのだろうか。
心の平穏は肉体痛をも超える強いパワーがあるのだろうか。
今の私にはそのようなパワーは無い。肉体の痛みが心の痛みに共感匹敵してしまう日常がわたしの今の生活である。

朝目覚めて、左足の痛みに「今日は普通に、さっそうと歩けるだろうか。自分の体の不快感が他人をも不快な感情を産みはしないだろうか」等と思いながら両足を床につける。
「あァ、まだ大丈夫」平気、平気。自嘲。
「おはよう。今日も目覚められたね。今日も大丈夫」と隣脇で目覚めた同年で、重度心臓病を持つ夫が半笑いする。我々は婚暦42年のベテラン戦友同士である。
それも、これも老いの症状の私も半笑いして今朝も彼と同じ言葉を繰り返す。
「おはよう。今日も目覚められたね。今日も大丈夫」

7/04/2010

勤務報告日誌ブログ

勤務先ドラッグストアでの報告書ブログ、勤務日誌もその一遍であるけれど、私は現在進行形で物事を表現するのに乏しいらしい。
得てして問題が起きたり、周りで平常生活からはみ出た事柄について、私はそれを対処すべく自分の行動は極めて遠巻きに観察し、激情をもってそれに立ち向かうと云う事はしない。
それは私が臆病である為とは思っている分けでは決して無いのだが、問題渦中にある当人の人権を重んじることもしかり、事の発端原因を冷静かつ平等に見極める能力とその判断力が遅いのかもしれない。
家庭内のトラブルや感情の行き違いなども、夫に事の成り行きを『あの時は、こうでした。』という形が取られるのが私の日常生活では成されるのが通常で、『今、こうなっています。どうしましょうか』という話が出る事は極めて少ない。
それは私自身が問題、トラブルを他の人と分かち合えないと言う事では無いのだけれど、今の私の年令で、これ以上自分以外の人間を巻き添えにしてまで自分の考えを押し通す無意味さをわきまえてしまうためだろうと考えている。
それと、何か事あるごとに他人からの同情を引くべく大騒ぎをするドラマクゥィーン達の中にあって、少なからず私自身が無様に振舞うことを控えようと心していることもある。
ほんの些細な事もこの手の人間にかかると、その時は小さな傷で放っておいても自然治療を施せるものまでもが、ばい菌に犯されるがごとく膨れ腫れ上がってしまうもので、そして長い間の痛みと共に膿を取り除くまでは治ることなく、そして醜い傷跡まで残す結果をうむのだ。

私は無意味と思えるくらいに多々お喋りしまくる人間と同じ場に同席するのが苦痛な性格で、フレンドリーを装うお喋り軽口人間と、媚を売って立場の優位を取ろうとする人間を嫌い、避けて通る性格であると知っている。
又、媚を売られて自分がその特権地位にある事を善しとする人間も嫌いだ。
具体的例を挙げるときりが無いその、虎の皮を着たナントカが私の職場にもいて、現在の私の日常生活をかき混ぜ気味である。

そもそも私の書く報告書は日誌であって、あった物事を報告するのだから過去形で然り、企画書とは違い未来計画書では無い。
時として、「何故もっと早くにこの事を教えてくれなかったのか」などと云うのは、お門違いというものだ。
それはその管理者の認識不足や管理不備が言わせる言葉なのであるから。
それと媚人間から得る情報という物は得てして浅い時点での上面情報や誤報が多いものである事を管理者は知っておく必要もあるだろう。

これからも、あとどのくらいの期間勤務し、勤務報告日誌を書いていくものやら自分にも皆目検討はつかない。
あと2週間、1ヶ月、1年又は、、、。
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6/02/2010

私的日本語昨今

先日日本映画やテレビ番組が見たくてグーグルで無料サイトを検索して数個のサイトを開いた際に、やられたらしい。
何、やられたとな?と膝を乗り出されても困るのですけれど。
ヴァイレスに。そう、私の可憐純情なPCが(どんなPCナノダ?)アダルトサイトに汚されてしまったのです。
日本語、中国語、韓国語ハタマタ何やら怪しげ語(?)のエロスアタックであります。日本語以外の言語は理解せずとも知れた内容でありましたぞ。(と、威張ったところで何もならないけれど)
それらを消却する度に消却以上の数のインプットがゴキブリのごとく湧いて出るのは、世界の何処かで、怪しげなおにィちゃん、いや、おねェちゃんか、はたまたオジン、オバンかは知らぬが、ボタン一つでオートロックを掛けているに違いない。
「ヌヌッ、オノレ憎っき奴等め!この仇、如何してくれようか」と暫く考えあぐねあの手、この手を尽くしたのだけれど、やはり、この彼女の体内に潜む怪しげな記憶を全面的に取り去るのはアレしかない。
という事で、PCはまたマッサラな処女じゃなかった、初期化に戻したのであります。
ノートン360度と言う名の対ヴァイレスという強い護衛もつけました。
しかし、しかし、私が持っているマイクロソフト機能エデションが古いもので、(このデスクトップも古いノダ)処女じゃなかった、初期化したところでもう昔の溌剌娘のごときには戻れなかったのであります。
やっとのところで、通常に近い昨日に戻し、「貴女も私と同じで、も少しはクタビレて来た事でしょうけれど、でも今ここで貴女に寝込まれては困ります。一緒にもうちょっとは頑張ってやって行こうではありませんか。満足なソフトを買い与えず、いつも無料のものばかり使用して貴女に苦労を掛けているのは百も承知ですけれど、私とて、不本意に思ってはいるものの、今はこれにて我慢して現役で働いていて下さいな。退職はもそっと遅れておりますが、ほれ、ノートン殿を護衛につけますゆえ、少しは楽に成りますでしょうし。私共々、まだまだ先に進みましょうぞ。」と言い聞かせたのであります。

と言う事で、最近はノートン殿のお目にかなったサイトだけが通過して参りますが、それでもそのポップアップの宣伝欄からまたヴァィレスサイトに通じている物があって、本体で番組鑑賞が終わったら、また必ずノートン殿に清めの儀式をしてもらうことに。

サイトのテレビ番組を見て感じた事は、日本の文化に変化があって、在米42年という私には少々解せない現象の一つに人々のユーモア感が漫画化してきていると思ったことです。
多くのストーリー自体が漫画本が原作であって、その人間化された番組さえ漫画本と同じ言葉、アクションをするわけですね。
私が知っている昔の日本は、人間そのものの生活、社会ストーリーが漫画本になって売り出されていたようですけれど、丁度その反対の現象が今の日本語社会に影響を及ぼしているのが現代といえます。
それはそれで、文化と歴史なのですから別に「嗚呼、今の世は一体どうしたものか、、、」とお嘆きの何処かのお偉い方の言い分を真似てみようと思っているわけではありません。
只、自分の身の浦島花子化に思うに「ネットではこんなに身近な日本も、私個人にはず~っと遠い世界になりつつあるなァ」という事のみであります。
「そうよ、オバサン、いえ、ババさん。そういうアンタの日本語ときたら、ひどいものよ。もう学習力も落ちてるし、ハンパ日本語丸出しでサ」
と街行く若い人達(今や世の大多数が私より年若でありますからして)に指指され、笑われるのがオチと思いつつも、今もって日本語を読み書きするのが楽しみと言う私、嗚呼、哀れなりィ~。
私は日本語でも英語でも普通にお喋り好きと言うわけではなくて、どちらかと言えば、お喋り嫌い人間なのです。(人と話すのが苦手なのです。勤務上接客時にはぺらぺらとよーく喋りますけれど。仕事ですから。)
でも、情報好き性格というか、知りたがり屋というか、これはこれで大変な性格の持ち主であり、その情報をどこから得るか、そしてその情報をどのように自分の生活に役立てるのかの問答人生を送ってン十数年、気がつくと人生道に喩えると、もうとっくに峠も超え、どこか皆が見えない地点にたどり着かんばかりの先道なのであります。
それで、もうこれからもう一花咲かせてみようなどと大それた事を考えているわけでもなく、こうしてPCを相手にあれこれと考えるのを趣味にしているわけです。
日本も日本語も今は恋しいが、しかし、「故郷は遠きにありて想うもの」とは良くぞ言ったもので、この浦島花子は日本語番組を見ては「あァ、今はそう言うのか」とか「そりゃそうだ。昔からそうれはそうと決まってたよ」とか「ほう、日本人は複雑だ」とかを独りごちている私的日本語昨今にあります。

4/25/2010

今日この頃

Glitter Graphics | http://www.graphicsgrotto.com 自分でもよく解らないのだが、ある時は言葉が頭から溢れ出るように書き留めておきたくなる衝動に駆られる時に相反して、頭の中が風が吹き通るがごとく空になって何も書けない状態になる。
今がその空の状態の時であり、こうしてPCの前に、さァて、と頭を抱えてしまっているのだ。
先日右下奥歯のブリッジを差し歯にする手術を施してもらったのが、まだ完全に癒えていないのでその痛み止めと坑ヒスタミンを服用しているのが脳にブレーキをかけているのだろう、すっきりとしない。
無論日常生活での老化症状もこれに加えて私の思考を低下させて来ている事も確かな事であり、色々な事が面倒に感じられてもいる。
何かに衝かれたかのように情熱をもって、一気に書きしたためるなどという行為は、やはり若さゆえの行動なのだろう。
今や、一文書いては目を閉じ、半分したためては考えあぐね、右往左往でやっと分に筋を通している。嗚呼。
しかし、それが哀しいとか云う問題でもなく、やはりこうなるのかといったある種の感慨が心に詠み返ってくるのである。
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この秋の新学期から孫娘が青春を謳歌するであろう州立大学フロリダインターナショナルユニバーシティの新入生公開説明会に参加してきた。
若さと未来への希望に胸膨らませた多くの学生とその家族等の輝くばかりの顔を見て、「これが人生に於ける青春そのものなのだ。学ぶ希望を持ち、新しい体験と身をもって社会に貢献できる人間性を養う場に足を下ろして、前進するのだ」と我が身の40数年前に心に感じたものを、また新たに孫娘の姿に重ねて見た私であった。
その昔の私には学ぶ事自体にも、その生活資金にも全てに力不足であり、自分に多くの言い訳をして前進の途を断念した事を、通年に渡り私自身の生活に枷をかけて来ていたように思う。
孫娘は幸いにも彼女の学力に年間150万円程の奨学金が降り、学費に頭を悩ませる事が省かれた。あとは前進あるのみ、後悔のない人生の歴史を作ってもらいたいと願って止まない。
これで彼女の親代わりとしての責任は終わりに近くなってきている、が、まだあとに彼女の二人の弟が控えている。
心身ともにくたびれてきている私と夫とが、いまだ隠居生活を夢見ている訳にはいかないのは私達に課せられた運命なのだろう。
育てる事が生きるという運命、命に責任を持つという事なのだろうと思う。
こうして私達はもしかして、何か大きなものに活かされて、育てられているのやもしれない。
この3人の孫達を育て上げる事で、私達夫婦のこの世での責任と役割を充分みとめられ、そして、もし、もしも、また次の世に産まれ出るとしたら、同じ責任を果す役割を素通り出来る許可証のようなものが降りるかもしれないと考えたりする今日この頃の私である。

1/23/2010

職場での女性

Glitter Graphics | http://www.graphicsgrotto.com
何故なのだろう、と時々考える。
人間、人生に於けるある時期は、特に女性の場合に多いのだけれど、他人と自分を見比べて競争精神が活発に脳細胞のシナプスを敏感に働かせる為なのだろうか。
それとも、個人の成長度に合わせホルモンと体内ケミカルのバランスを計る体内精神バランス自動機のようなものが、ライバルを見定めてはそれに自分を見合わせて行動を計ろうとする為なのだろうか。
専門精神研究者には簡単な答があるのかもしれない。
兎に角、世の女性はある年令時期、自分に向ける目より、他人に向けて競争、攻撃、行動をする度合が高くなる。
私自身についても、確かに身に覚えがある。
30代のある時期はある対象を見定めて、それに伴っての敵視生活を暮らしたものだ。その対象に目を向けたのは色々と理由や理屈つけがあったように思う。
しかし、その時期を昔に思う今、その時の自分が如何に愚かにも自分の内面に向ける目をその対象に向けて自分の存在を誇示しようとしていたように思う。

通常の世の人々が退職生活を楽しむ年令になった今の私が若い連中と一緒に職場で暮らす現在の生活には、年令当時の私自身の姿がどの仲間の中にも見て取れる事があり、これが人生経験を積んだと云うのかもしれないと、密かに自分に知らしめたりするのである。
20代の女性はその生活体験無知さゆえ、非常識を非常識とは受け止めず、道徳、モラルは単に年長者の戯言と鼻で笑う個人主義傾向を良しとする風潮は今も昔も変わらないようであるし、30代、40代の女性は個人の生活環境体験から他人、特に年上、又は各就け上の人間に向けて自分を計る行動に出る傾向がある。
そしてこの年代女性は確実にそのライバル対象より、自分が優れていると確信し、その対象に目を向けることで毎日の生活に自分の精神バランスを取ろうとするのである。
人間そもそもが闘争の動物であるためなのだろうか。
そして、近代世の男達が違う世界で違った意味の闘争の最中、女達は女達での自分と廻りの闘争を生み、闘争の中の生活をする事で、自分という存在を自他共に受け入れてもらおうと試みているのかもしれない。
確かに、私の職場の女連も“かしましい”。彼女等はあたかも、その状況をエンジョイするがごとく、他人を貶める事に専念し、エネルギーを費やす。
私はそれらには加わらないのは人種の違いからでも、文化の違いからでもなく、確かに年令、世代の違いであるように思うのだ。
それは、人間が人間である為の一時期の道なのかもしれないと思い、今日も私は彼女等の生活闘争劇を見やっているのである。

1/12/2010

トイレット・ペーパーと孫三人の関係



「何よ、ディビッドの嘘つき。まだトイレット・ペーパーここに沢山あるじゃないのォ」
朝から高校最年長生になった我が家の一人娘が弟に向って毒ずいている。
彼女の若く、輝くような顔姿もこの時は目が三角にならんばかりで、たかがトイレット・ペーパーごときに、その曇り顔は誰が見ても、ちょっとばかり頂けない。
ティーンが3人と大人3人の6人家族の私達が、そうも大家族と言う訳ではないけれど、核家族の多い昨今での一家族としては人間密度が平均家庭より高いかもしれない。
週2日は山ほどの洗濯物をこなさなければならないし、ゴミも週2の回収日には飽きれるほどのゴミの山が我が家から吐き出される事となるのをみても、やはり小家族ではないと思わせるには充分の理屈とはならないだろうか。
お洒落と清潔を建前の彼女にとっては、トイレット・ペーパーの獲得は大問題らしく、弟二人にいつもその数を報告させているのである。
幼い頃の或る日、ペーパーが切れていた事がトラウマとなっているのかもしれない。兎に角彼女のペーパーチェックは毎朝の事であり、それでいてトイレにはいってからペーパーがないと気がつくのが遅いのも、これまた彼女なのである。
2階の彼等のトイレから階下にいる私に携帯で「グランマ、このトイレに予備ペーパーがないの。」と電話通話をしてくる事もあるズボラさに飽きれさせられたりもする。
「貴方ねェ、最後にペーパーがなくなったら、直ぐに入れておくものよ。解ったわね。この間も私が入れておいたのじゃなかったかしら。」と弟のどちらかにあたるのは何時もの事で、弟達はお互いに「だって最後は僕じゃないもの。」と言い合うのである。
実母不在家族の彼等3人には、私が生活家事一般代理母であり、弟二人は姉である彼女に対して、時には母親を想う思慕の対象となっているのも確かな事で、彼女の命令には滅多に逆らう事なく良い様に使われているのだ。
来年は彼女も大学に進んで、この家を離れる事だろうから、その時の弟達二人が淋しく想うのを今でも充分に察しられる。
女性は判断力に富み、男は賢くて、マメに行動を取れる人間になるのが、今の世間には通用すると私は思っている。
「早くトイレット・ペーパーを補充しておきなさいよ」と彼女に云われて、「自分で持っていけば良いのに、いつも僕にさせるんだからなァ、、、」と文句を言いながらも、どちらかの弟が彼女の言葉に従うのも、今のうちだのことだからと私は見て見ぬ振りをするのである。
Backgrounds | http://www.graphicsgrotto.com

1/02/2010

2010年元旦に。




郷里の幼い過去の私がこの年が来ると云う事を、どんなに知恵をこらしたところで頭の中に想像できたことはない。
ぼんやりと頭の中で日本以外の国の生活とは、どの様な物なものなのだろうと時々独りママゴト遊びの合い間に考えた事があった。
あの時の私は病身の母が入院中で、厳格な祖母の世話を受けて伯父宅にあずけられていた。
二人の兄達も他の親類にあずけられていて、家族は離散生活中であったのだが、3,4才の幼かった私が特に両親や家族を恋しいと想う事もない、どこか冷えた感性をもっていたようだ。
生活というものは自分が作り出すものというよりも、誰にもそれぞれにある状態の中で、あるものを受け入れながら「こんなものなのだろう」と納得了解して生きていくものと考えていた。

私の人生で最大の冒険が19才の夏に単身渡米した事なのか、勉学が面倒になって放棄して詰まるところ、結婚という道を選んだ事なのかは、どちらもどちらで私の軽率さであり、熱しやすく、冷めやすい、いい加減性格の最たる表れなのだと思う。結婚生活が悲惨なものだと感じたことも無く、もう42年間も相棒とはお互い邪魔せず、邪魔されず、無視もせず、自分の身の一部のごとく受け入れてやってきた。好きも嫌いもお互いを支えてきたという思いより、お互いの個を尊重してきたと思っている。
「人生、これでいいのか?」「いや、いいのだろう。こんなものだ」と自問自答の在米42年間である。
それにしても、大した努力なくして何となく無事に人生をここまで来てしまった事に少しばかりの、否、大いに悔いが無いといえば嘘になる。
もしこの世に輪廻というものがあるのなら、来世にやり残した沢山の事を繰り返しやらなくてはならないとしたら、、と考えると、「ひぇッ、恐ろしやァ」などと今更、そう今更なのだが思ったりして「成れば、今の人生後半期をせめて伸ばしていかねばネェ、無理繰りまた新しい人生をやり直しは、ちょっとキツイんで無いかいっ?」など、ここにきてまた新しい事への挑戦をしり込みしている次第である。
家族にも、勤め先にも自分が必要とされているとの自負はちょっぴりあるけれど、私という個人の代わりはそうもいないかもしれないなどと奢ってみるつもりは毛頭ない。私独りが皆の生活を支えている訳ではなく、また人それぞれが皆、個々でその世界、生活を作り出しているのだから、私という個がそこを抜けた事で全体の生活がアンバランスに成る事はないのだと云う事を充分知って生きているつもりだ。
私は私にとって大事な皆の生活の一部であり、その意味で自分を大事にする必然性を感じてはいるが、どの皆も自分で自分を大事にする責任はあるのだと考えている。
2010年の元旦に自分のあり方をちょっとばかり、考えた私のこれからの人生も今日の新しい一歩が将来に繋がっており、私の一歩が家族と廻りの皆の生活にも関わりをもちながら続いていくのである。
自分を大事に、生活の一部を皆の生活の全体へと、そして周り全体の社会へと個の生活在り様が今日からもまた繋ぎ、繋がりながら、今年も始まっていく、今日2010の朝である。