7/18/2009

円子の「こんなもんかい」物語 その (13)

その(13) あがき

坂下満は多いに頭を悩ませていた。
妻の輝美が満に二人の仲に子を設ける事は出来なくなった事態の再策として、満に外で付き合いの或る女との間に出来た子供を、坂下家の養子として認知して欲しいと申し出たからであった。
その申し出がなされた直後は満も妻を哀れと思い、その策には大いに寛大に受け止め、内心は自分が坂下家を完全に取り込めたことで天にも感謝したい思いの満であった。
しかし、天は決して満のその黒い腹を見逃すことなく、悪性を罰する事に目を閉ざしていた訳ではなかった事に満が気がつく日も直ぐの間にやってきた。

当時の満が通い詰めていた店は数多くあったが、そのなかでも源氏名を篠という蝶を可愛がっており、その彼女がある日満の耳元で「産んでもいいでしょう、この子」と自分の腹部に両手を当てて彼にささやいたのであった。
その頃はまだ、坂下家に養子を入れる話が起きていなかったので、満は大慌てで篠の堕退を強要したのだが、篠はそんな満の言葉を受け入れず、ついには人の口沙汰に上るのを伏せるために、満が彼女にマンションを買い与えてそこに住まわせ生活の面倒を見る事になったのであった。
が、篠が男児を生んだ後は、時には顔を見せる事はあっても、満の弁護士を通してそれなりの手切れ金を渡し、坂下満の名が表にでないようにとの念書を書かせたりもしたのである。
そして、その後に及んで、妻の輝美が満に下した養子縁組の要望条件に、満はこの時真っ先に篠に産ませた男児を頭に思い浮かべたのはいうまでもなかった。
篠の子の名、それが保志加円子が先輩と呼んでいたあの啓真に他ならない。
念書まで書かせて、自分との繋がりを拒否した満であったのが、今度は弁護士を通して、それなりの財と地位を約束すべく啓真を坂下家に認知したいと言い出したのだ。
篠は自分の子を手放す事を嫌だと初めは拒否の態度であったけれど、満が彼女も含めて引き取りたいと言い出した事で、子供と別れることにはならないのなら、と一応の納得を示したのであった。
しかし、しかしである。
2日ほど出張会議で家を空けて、帰宅した満に妻の輝美はそれまでに見た事も無い形相を浮かべて満を向かえ、開口一番に彼をなじり始めた。
「一体、貴方と言う方は、、。誰の子か解らない者をよくも坂下の家に迎えようとは。私を騙して、その母親の女とこの家を取り込もうとしたって、そうはいきません。貴方の悪巧みはここまでにして下さい。坂下を一番大事に思って、ここまで盛り上げてくださった貴方の努力には充分感謝しておりますけれど、私はまだ、坂下の者です。貴方に全面をおまかせしたわけではありません。」
当時はまだDNA鑑定のような確定的に親子関係を調べる方式は発見されてはおらず、血液の型でしかその関係を証明するのは困難であった。
そして、そのある意味には単純な血液鑑定に於いてさえ、それが満の子供では在り得ないと証明されたのだと輝美は云う。
満の驚きは輝美のそれよりも、もっと衝撃だった事は言うまでも無い。
満はその子が自分の子であると、疑っても見なかったのだ。篠は満が通い詰めた店のナンバーワン人気の蝶であり、廻りの男達の中でも自分が篠の心をしとめた男として満の自尊心は舞い上がっていたものと思われる。考えの甘さに満は自分を蹴り、殴り倒したいほどの憤りを感じた。
『雌キツネめ!この自分をまんまと騙して来たのか』満は自分の自己中心的考えを棚に上げて、篠にその怒りをぶつけようとしていた。

目の前の当の篠に到っては、私にはこれ以上失うものは無いとと開き直った。
「何をおっしゃてるの貴方。私はこれは貴方の子ですとは今までに一度だって口に出した事はありませんでしたよ。貴方だってそうじゃありませんか。そして私に口外無用と念書まで書かせたではありませんか。ほら。」と、満自記書の紙を目の前でひらひらさせたのであった。
この事態に及んでも、篠を怒らせて、これ以上に事をこじらせるのは適切な処置では無い事は満自身にも感じられた
念のためと、篠と啓真を病院に半ば強引に再検査に出かけた満は、そこで、又、更なる事態を知る事になり、唖然となったのである。
それは、彼自身には子を産む機能がとうに失われているとの医師からの言葉であった。
満にはそれがダブルのショックとなって自分の前に立ちはだかる運命に頭をかきむしったのであった。

満は泥酔していた。もともと夜遊びは好きで、夜の街には一応の幅を利かせていたのは彼が酒に強くて、口上手、商談上手、そして人扱いに長けているというところであったのが、その夜の満の姿は敗北者そのものといった感じで、どの面もが成功者や優者としての満の面影のひとかけらも見られなかった。
独りで、どうしてその酒場に行ったものやら、そこがどこなのかも満には解らなかったが、そんな事はどうでも良いという気になっていた。
篠達と別れてから、独りで考えようと暫くは街中をふらふら歩いてみた。
彼は山奥の農村出身者には独特の根強さがあり、どんな時にも巧く周りを適用し、弱者となる事を拒否する基盤を心に植えつけていたので、思いあぐねるたった今でも、何か自分に出来る策は無いものかと、頭の計算機が動いていた。
と、ある小さな居酒屋があるのが目に入り、初めて、商談抜きで自分の為だけに酒を体に入れてみたいという気分が持ち上がり、のれんをくぐったようだ。
それこそ、いままでにたった独りで酒を友に飲んだ事があっただろうか。いや、無かった。黙って独り飲む酒は決して悪いものではなかった。
所詮、人間なんて独りで産まれて、独りでこの世を去っていくのではないか、と意味の無い理屈を頭の中で捏ねていただけかもしれない。
「人生なんて、こんなもんかい。こんなもんさ。」自問自答した満であった。




続く。