7/04/2009

円子の「こんなもんかい」物語 その(9)


その(9)迷い猫

父親の目は笑っているようだったが、その面影は円子にとっては親しみのある物ではなかった。父親というより、彼女の年令の娘にとっては、祖父としてもおかしくない年令に思える、その人物は確かに彼女の過去にかかわりのあった人であると思ったのだが、それ以上の事は皆目解らなかった。
太い腕を円子に伸ばすように広げて「円子、さあ帰ろう。」と言った声は、確か何処かで以前聞き覚えはある、、と円子は改めて、その父親だという初老の男性の顔に見入った。

車は一体どの位乗っていかねばならねばならないのだろ。
病院は随分山深い場所にあるに違いない。もう小一時間は病院へ途の為だけに舗装されたのだろう道路を緩やかなカーブが右へ、左へと曲がりを付けて走り続けている。その間、誰もが何も言わず、世話人だという栄子と父親に挟まれて座っている円子が何か話し出すのを待つかのように、時々「何か?」といった風な視線を投げかけてくるのが、少し息苦しさを感じさせるためか、時間が映画化何かのシーンのようにスローに動いているかの錯覚さえ覚えてくる。
実際には感じているほどには、遠い道のりではないのかもしれないと、円子が新ためてその錯覚を振り解く意味でも、周りを見回そうと少しばかり体を起こしたと同時に道路両脇の木々がまばらになり、視界が広がり、家屋や商店街の賑やかさが見え出した。
そして、街中を通り、その商店街の賑やかさが車の後方になった後は、また林が見え、その中ほどに門構えが目前となった時、奥に一軒の家屋が静かにたたずんでいるのが見えた。
「さあ、お嬢様、」と既に車から降りて、円子が降りるのを待っている父親がいる事を察するように栄子が微笑みを浮かべながら伝えたのだが、円子は自分がい何処に来た物やら、いったい自分は何を如何しようとしているものやら、益々困惑するばかりであった。
円子の部屋は二階階段廊下の突き当たりにあり、その門四方に大きな窓が張り巡らせた明るい部屋であった。
何かを思い出せるかもしれないと、隅から隅まで目を凝らして視界を巡らせたのだが、円子には目新しい調度品、家具ばかりであり、しかも自分の過去人生にかつてこのような生活環境で暮らしたとは想像だに出来ないものであった。
紅茶を運んできた栄子に向かって円子は聞いてみた。
「父は何をしている人なのですか。それと、私の母と言う人にはまだあっていないのですけれど、、他に、兄弟か姉妹はいないのでしょうか。」
この質問は病院でも医師や看護婦にも、聞いたのだが、「徐々に環境に慣れた時、自分の力で思い出すでしょうから、今は急激に全てを想像力だけで作り上げない事です。」と教えてもらえなかったのが、円子を苛立てていたのだ。
「私は家事お世話人で、会長のお仕事関係にはかかわっておりませんし、はっきりした事を知らされてはおりませんの。それに、私は奥様がお亡くなりになった後にここに入った者ですから、新米世話人なんですよ。あ、そのお亡くなりになった奥様はお嬢様のお母さまではないと聞かされておりますけれど、そこの事情は私にも解りません。」
栄子の話によると、父と長年病床に臥していた妻の間に子はおらず、円子が養女として血筋親族から承諾を得て、移り住む事となったという。
それを妻が大いに喜んで一緒に暮らすのを楽しみにしていたのにもかかわらず、話が持ち上がったその後、その喜びを親子として生活を分かち合う事を待たずして他界し、同時に彼女のお世話役であった夫婦同居人が、お役目終了とばかりにこの家を出て行ったそうである。
父は妻の死を悲しみ、妻の意思を継いで、円子と暮らしを共にする事にしたという。
今は父の会社関係の秘書のような男性がこの家の全般世話人の責任者として出入りしていて、その人物と栄子とでこの広い屋敷を管理しているそうだ。
何だか、人事としか聞こえない栄子の話に円子は何の感慨も覚えず、又どれ一つをとって考えたところで、円子には自分の脳の奥から湧く様な衝動感の波動も感じられず、しっかり聞いておこうと心していたはずの円子の頭を話が素通りしていくような肩透かし感に落胆したのであった。

そんな何の新しい進展もみられない或る日の朝、部屋でぼんやり外庭を眺めていると、栄子がかがんで丸い後ろ姿をみせ、何かをしている。
花瓶に添える花でもあつらえようとしているのか、楽しそうに時々その丸い後ろ姿が笑っているのか肩が上下して震えたりもしている。
と、その右肩からゆらり、ゆらりと振られる尾が見えた。
あ、あれは猫、犬の尾じゃないはね。どうしたのかしら、あの猫。
猫が栄子の右脇から跳び出し、それを目で追いながら栄子が振り返って円子が窓辺に立っているのに気が付き、笑いながら手を振る。
「このところ、毎日この猫ちゃんこの庭に遊びに来るんですよ。どちらのお家の猫ちゃんなんでしょうけれど、人馴れして、仕草が可愛くって、私もついこの猫ちゃんが来るのが楽しみになってしまいましてね、、。ほら、可愛いですよねェ。お嬢様も猫お好きでしょう。でも、この家ではご病人がいらしたから、動物は家に入れないようにと云われてますもの。」
窓を見上げて栄子が声を上げて、細窓を開けた円子に向かって話している間もその猫は、ぴょんと2,3歩跳び上がって前足を上げたままで、栄子が見上げた方を一緒に見上げている。
可愛い。猫を見るのは久しぶりだ。円子は笑顔を作りながら猫と栄子の方に手をふった。
「猫さん、お名前は何かしら、どちらからいらしたのォ」と円子にしては始めての大声、といっても普通より少し声を大きくして猫に向かって云った。
-あまり遅くまで遊んでいたら、サエさんが心配するでしょう-
頭の中で、円子は思った。
え、今何て?サエさんの猫、、。そうだ、あの猫に良く似た猫をサエさんと云う人が子供のように可愛がっていた、、あれは、どこでだったのか。
私が側を通ると、いつも側まで寄ってきて、でも触ろうとすると、丸い目を私に向けたままピョンと跳びはねて、、それを見て、サエさんは笑ったんだった、、。
そうだ、私はそのサエさんと知り合いだったはず。
体に小さな震えが起き、体を窓辺から側の壁に預けなければ立っている事が出来ないほどの衝撃が円子の脳天を貫いた思いにかられた。
まだ外庭で見上げている栄子の視界から円子の姿が見えなくなっていた。

続く。