6/29/2009

円子の「そんなものかい」物語(8)


その(8)父親

医師の前に座って円子は目を思いっきり見開いていた。何も聞き逃すまい、早く事の次第が知りたいといった姿勢がその目に事を映し出そうとせんばかりである。
あまりにも急速に脳活動が始まって、記憶を引き出す妨げになっては困るという理由からか、医師の声はあくまでも柔らかで、ゆったりとした感じに、円子の方は医師の検診質問などはどうでも良いではないか、と焦った気持ちがあるためなのか、手の平に汗がジワッと出てきている。

一年半も私の記憶は頭脳の扉の中で怠慢にも休みを取っていたんだ、、。
何と云う事だ、まったく、何と云う事なの。
しかも、私がその夢うつつの中で、殺傷事件を起こしていたなどとは、、。
最初は私の病院カルテに書かれた名前で直ぐ、それが私の本名であると解った。あんなに嫌だった名前からスラスラと記憶の糸を引き出す事が出来たのだから、これからはこの名前を大事に扱う事にしよう。
でも、住所に書かれた所には全く覚えが無いし、本名は保志加円子(坂早満 長女)とある。これは私の実父の名なのか、はじめて知る名で、決して私の過去の記憶から消されたものでは無い気がするけれど、どうなんだろう。
私が竹べらのようなもので、或る男性を傷つけてしまったという。
その人の名を知らせてはもらえなかったので、私とどういう関係の人なのか又は、どのような事件だったのかは今も解らない。
正当防衛でもあったのかもしれない、結局のところは私の罪としては報告がなされていないらしい。
今日解った事はそれくらいだけれど、今後徐々に全てが記憶に戻ってくるに違いないとお医者様は優しく笑って言ってくれた。
でも、驚いた。鏡で自分の姿を見た時、丸い体型だと思っていた私なのに、筋肉が落ちたせいにしても、狸顔がキツネ顔に替わっていた。
私が記憶喪失状態でいる間に数人の知り合いが私を見舞ってくれたそうだ。
私に知り合いなんていたのですかと聞きついでに、今日もその一人の方が来ましたよね、母だと思うのですけれど、と言ってみた。
その時は看護婦が急に私の目の前までやって来てかがんだ姿勢で私の耳元でいった。「いいえ、貴女のお母様は一度もお見えになってませんよ。お父様だけです。」
え?私の父親?それこそ私の記憶には何にもない、父親?
そうなの、、まったく見当のつけようもない。母親というのは何となく懐かしさで思う気持ちがあるけれど、今までにそんな言葉を思った事があったのだろうか、、父親、、。

その後の病院生活での円子の記憶には、それほどの進展が無く、新たに思い出す事実もないまま医師との無用な問診が続けれる数週間が過ぎ、その間には誰の見舞いも受けず、又もや円子の心の中に得体のしれない不安感がつのりつつあった、そんな或る日の事である。
中年の女性が看護婦に連れられて円子の部屋に現われた。
「お嬢様、円子お嬢様。宜しゅうございました。これからはお父様とご一緒にお幸せにお暮らしになれますね。」とあわただしく大きなバックからハンカチをさがしあてて、目に溢れ出る涙を拭うのだった。
その様子をただ、何の感情も沸き立たないままにみつめる円子に看護婦が言う。
「こちら、お父様のお宅の家事お手伝いの栄子さんは、度々円子さんのお世話にもいらしたんですよ。それは覚えておられるでしょう、つい先月の事でしたもの。最期にこちらにいらしたのも。」

あァ、そうでしたか。それは失礼しました。でも、今の私には貴女が何方なのかは皆目見当がつきません。
でも、私をお嬢様なんて呼ぶ人など私の過去の人生にあったとは、どうしても考えがつきもしません。しかも、父親宅のお手伝いさんなんて、、、。
私はいつも独りでいたように思えてなりませんし、確かに名前は円子ですが、、あ、思い出しました。この名は確か、祖父が付けたものだと思うのです。私をすごく可愛がってくれた人だったと、、だったというのは、祖父はもう他界しているから、それは確かめようが無いのですが、母がそう私に言ったように記憶しています。でも、この病院では私は父親とこちらに来たといってますから、、私に父親もいるのでしょう。

円子はそう口に出して伝えたのか、実際はただ、そう心で思ったのかは彼女の中では、はっきりとしてはいなかった。
「お父様がもう少ししたら円子さんをお迎えにきます。良かったですね。今日からまた暫くはご自宅で養成なさいませ。お嬢様が帰っていらっしゃると思うと、もう私も嬉しくて、言葉もありませんですよ。しっかり私にお世話をおまかせ下さいませね。」と、またその栄子なる女性は円子の手を取らんばかりに嬉し涙にくれるのだった。
そして、何が何なのか頭の中は混乱したままも、円子はなるにまかせ、一時帰宅の書類を受け取り、身支度をしたのである。
鍵がかけられておらず、開け放されたままのドアの外から重々しく、少し引きずり気味の靴音が遠くから響いてきて、徐々にその足音が近ずいて、戸口に止まった。
あの初めて自分の名が解った時と同じように、円子の目は見開き、その戸口光の中に黒く陰を作って立つ人を見分けようとした。
嗚呼、黒いこの人影は私の父親という人物なのか、確かに初対面のようではない、目がその影を投じている姿と形を捉えただけで、かすかに円子の脳のどこかの小さな記憶の部分が、決して懐かしいというわけでもない何かを捕らえてうずく思いにかられたのであった。
「お父さん」と円子の口が音を出していた。


続く。