6/28/2009

円子の「こんなもんかい」物語 その(7)


その(7)誰か応えて

解らない。何もかもが。
筋立てて考えようとすればするほど、円子の頭の中の霧が濃くなっていくようで、その思考を妨げた。
どうやらここは病院らしい。今の時刻は朝らしいが、それは壁の時計でも解るし、外から差し込む太陽の光でもそれは解るのだけれど、一体何故私がこの部屋にいるのかが、そして何故洋服が棚に掛けれれているのかも、解らない。
しかもその私の着替えらしき洋服は、まるで覚えの無いものだし、サイズもちょっと細めだと云う事は、私以外の人の物なのかも知れない。
でも、何故、、。ここは個室らしいし、付き添いの人が居る訳でもない。
窓からの外の様子を伺っても、何も記憶に残るところは無い。
しかも部屋のドアには細長いアクリルらしい窓があるのみで、鍵が外から掛けられているのではないか。
これは私のいつもの悪夢の背景に類似している、監禁部屋の一室の様な感じではないのか。あのテーブルに置かれた数冊の雑誌と、上に乗せられた果物以外では淡いピンク色が夢の中の灰色と取って変わったという以外では確かに、あれと同じ部屋住まいだ。窓もお洒落風にかかったアイロンロッドだって、どんなに洒落てみたところで鉄格子の役目には変わりは無い。
しかし、何故私は今こうして、ここにいるのだろう。
病棟全体に埋めこめられているらしいスピーカーからクラシック音楽がかけられいるのが一時停止したかと思うと、「連絡事項…医師、201号室にお越し下さい。」とのアナウンスが掛かった。
病院・・医師・・サイズの合わない洋服・・雑誌と果物・・監禁状態・・と円子は口に出して言ってみた。そして、もう一度。
再び外の様子を覗いてみようと、顔を窓に向けた時、自分の体が細ってきている感じがあり、ふと体を見ようとして自分の長く伸びた髪が目に入った。
え、カツラでもない、この長い髪は私のもの?
ふと、自分の姿をチェックする必要性に駆られたが、鏡は部屋には何処にも見当たらなかった。
窓辺に立った円子の目にアイロンロッドの掛かった厚いアクリル窓の反射に自分の姿が映るかと期待したのだが、朝日がさす光の中では自分の姿は見えず、落胆を覚えた。「夜なら自分の姿がここに映り見る事が出来るに違いない」円子はそれを待つ事にした。「見知らぬ、あの洋服はやはり私の物だったのか、、。」円子は改めてその洋服に触ってみたのであった。
サラサラとしたその感覚と上等に縫い合わされたデザインから、それが絹の高級品である事が感じ取られた。側にはやはりその洋服に合わせた高級品らしき靴とハンドバックが置かれている。ハンドバックの中に何か自分の今の状態を判断する品が入っているのではないかと少し興奮を覚えたのだが、その中味は案に反して空であった。
ふと、防音を施されているその部屋ドアの向こうに何やら気配があるのが感じられ、ドアの細窓から廊下側を覗いてみると、一人の中年女性が身だしなみを崩して3,4人の看護人に囲まれて押し問答らしき状態で何かを騒ぎ立てている様子だ。
あの人もここの患者さんなのだろうか。でも私のように病院仕立ての簡易服じゃなくて、私服だから、面接来客なのかもしれない。でも、何であんなに喧嘩腰に騒ぎ立ててるのだろう。
と、急にその女性の顔が円子が覗いていた細窓に迫ったかと思うと、口を大きく開けて何かをわめきながらドアをたたいている様子が現われ、音はきこえないものの、その迫力にはすっかりおじけついてしまい後ずさりせずにいられなかった。
数秒もたたないうちのことであったろう。その女性はついに看護人達に引き戻されていったのだった。
円子は瞬時のその光景を恐ろしいものを見たようにおののきながらも、何かを思い出そうとしているのが自分の中に生まれているのに、気付いた。
あの女性の形相には確かに驚いたけれど、こうして思うと何故か懐かしみが湧き、それと似た顔つきを遠い昔にも同じのを見た事があるような気がした。
大きく開けられたその女性の口、、。何を言っていたのか。
あ、そうだ、あの口は、唇の形を造って、言ったに違いない。「マ・ル・コ、、マ・ル・コォ、、ア・ン・タ・ガ・ワ・ル・ク・ナ・イ。マ・ッテ・テ・ヨォ、、タ・ス・ケ・ル・・・ガ・・・・」後は解らない。
マルコって、誰?
私?あァ、そうか、あれ、私の名は何というのだろう。
先ほどの女性が言ったのは私の名なのだろうか。
その時が、自分の姿が変わっているのと、何故そこにいるのかが解らなかったのに加え、自分の名前さえ忘れてしまっているのに又新たな驚きと不安で一杯になって、心が押しつぶされんばかりの感覚を覚えた。

落ち着こう、深呼吸をして脳の活動を再始動しなくっちゃ。PCが壊れたと思ったときにも一度は再始動で様子を見ていたではないか。完全に壊れきった訳ではない。記憶が全部抹消してしまったはずはない。脳のプログラムを組み立て直せばいいだけなのかもしれないし。ちょっとのショートサーキットなのかもしれない。と云う事は、私は以前にコンピューター関係の仕事でもしていたのかしら。
情報を引き出すのは、難しくも無い気がするもの。
自分の名前も確かでない人間としてはまるでトンチンカンなウワゴトを言っている可能性も無きにしてあらず、でも、努力する価値には代わり無いものね。
円子はあつらえてあるテーブルの側の椅子に腰掛け、果物に手を伸ばして、ふと、それらの雑誌に目をやった。
その雑誌はどれほどの差があるのかは、今は解らないが、それは確かに円子にとっては見知る事がなかった未来であるはずの年数、月号が記されているのが見て取れ、そのれが彼女として捉えた初めての未知の空白である事に愕然としたのであった。
まるこ、マルコ、丸子、マル子、円子、まる子・と、、彼女は頭にその名を書いてみた。側にペンがあったのなら、紙に書き取って、目でも確かめたかったのだが、その部屋には書き物の用具は設置されていなかった。

今度はベッドに横になって考えた。すると頭の中で、幼い頃に名前の事で、虐めはやさされた事に悩まされた時期がある事に思い当たった。
そして、泣いて母親に言ったところで、取り合ってもらえなかった口惜しさも加えて、その時の見上げた目に映りかえった母親の顔が浮かんだ。
アッ!先ほどの女性は顔姿こそ年が往った感じではあるけれど、あの時私の目に見知った面影をもつ、私の実母ではなかったろうか。そうだ、確かに、一緒に住む期間も無かった、あの母親である。
円子の頭に浮かんだその思いは確信にちかかった。 そして、あの必死に髪を振り乱して私の名を呼んだ事が、以前にも一度、あったように思う。たった一度きりだけど。やはり、その時彼女は、ああして私の名前を呼び叫び、加え、「大丈夫よ、きっと全部が大丈夫。心配ないからね、円子。」と云った言葉が耳の中によみがえって来た。あれは、いつの頃だったか、、。
どうして、あまり私を育てる事に感心を寄せなかった母親が-確か、あまり親密感のない、そんなに切羽詰った事柄を話し合うような心が通った、仲の良い親子では無かったように思うのだが-今、一体また彼女がここに現われたのには、理由でもあったものなのだろうか。

知りたい。私は誰なのか。どうして、今、こうしているのか。
そして、昔の自分を、昔の人生がどんなものだったのか知る必要がある。
事故か、事件にでも巻き込まれたのなら、それなりにこの病院で治療完治を期待しているやも知れない。
何時、回診や治療往診時間なのだろう。
私がどうしたのか、私に何が起きているのか。誰か、早く来て、話してよっ!
これまでも、何度か入室者にアレコレ尋ねてみた気がするんだけど、誰も何とも応えてくれなかったでしょう。一体、如何したというのかしら。
昼食トレイらしきものを両腕に抱えた看護婦が、介護人係りらしい男性の鍵で開けたドアから入ってきた。
「私の名はまるこというのですね。どうして、私はここにいるのでしょう、教えて下さい」と看護婦がトレイをテーブルに乗せようとした時、興奮気味な口調で言葉を発した。
トレイを驚いてテーブルに音を立てて、落としながら、看護婦は円子の側に駆け寄った。ドアの介護人は驚いた様子で、廊下にたっているであろうか、医師に声をかけた。「先生、先生!患者さんが声を出しました!」「そうか。」
走り寄った医師達に「今、声を出したのは、貴方達の方でしょうが。私はいつでも声は出していますって。貴方達が聴こえていなかっただけじゃないですか」 円子の方が、戸惑う方であり、皆の視線を受けて、不思議に思うのみ、まるで、部屋の空気がその流れを止めてしまったかのような、瞬時の場面を感じた円子であった。


続く。