6/27/2009

円子の「こんなもんかい」物語 その(6)

その(6)記憶
庶務課で円子はタウン誌の設置場所記録、関係社名情報住所録、個人献金授与及び援助者登録書、そして社員住所録などの管理としての変更や新設、受け入れ情報をコンピューターに打ち込み、各課へ、そのコピーを配る事が主であった。
なるほど、それで香織が打ち込む書類以外でもアレコレと情報を仕入れる事が可能な訳であるのかと、納得がいく。
それにしても、香織さんったら机に向かって真剣に仕事をしているのは一日で1,2時間程しかないんだから。
それで私の方に書類がまわってくるのだから、まったく先輩としては情けない同僚といえるは。
先日だって一生懸命何かを読んでいると思って覗くと、週刊誌を読みあさっていたもの。私が覗いていると解って、目を上げて例の鼻の上に皺を寄せて「こういう形で情報を得る事は、これも仕事のうちの一つだから」と笑ってみせた。
どうせ映画スターのゴシップ記事にきまってる。その関係にはすごいミーハーで私よりも年上だというのに、週末にはその「追っかけ」に忙しいらしいし。
「今度円子さんも一緒にライブを見に行きましょうよ」なんて云ったけど、私はごめんだ。もっとも今までに人に誘われて何処かへ行ったなんて事の無い私にはちょとばかり心誘われて、「今度いつか、そうさせて下さい」なんて返答しちゃった。
こうして円子の生活は、以前に寮と大学の通学が平々凡々と送られていたのに代わって、今度はアパートの自宅とバス通勤に単に入れ替わったかのようになったと云うだけの生活に入ったようになっただけの感覚さえ覚える毎日となりつつあった。
“U安堵I街”-You & I Town又は、君と私が愛し心安い街-というちょっと洒落をもじったような社名のタウン情報誌社に入社して3ヶ月が過ぎようとしていた。街はそろそろ春の緊張感と興奮や又は花見気分の浮かれた時期から、今度は暑く、けだるい日々が続く夏気候に変わっていたが、円子の庶務課での仕事は相変わらずといったところで、入社の際に社主が言ってくれたように、そろそろ他の課でも仕事体験させてくれる時期なのではないかと心待ちにするようになったのは、毎日飽きもせずにアレコレとゴシップを聞かせる同僚の香織に対し少し、いや、実際のところは多いに壁々しているからでもあった。
左程の大きい会社でもなさそうなのに、あの日以来、トレーナーとしての松谷は時々顔を出して、「どうです、庶務課は。もう慣れましたか。ここが会社の始まりといっても過言ではないのですよ。こういうデーターを揃える所からこのタウン誌が生まれたのですから。」とか云って、円子の仕事振りを覗いては、ついでに香織と話し込んでいくといった感じで、他の課の人達とも何度か顔を合わせて挨拶程度の会話をしてきているのだが、社主の高田にはその後、一度だけエレベーターの前に立って書類を調べている姿を見かけたのみで、話を交わした事は無い。

徐々にまた円子の心の中に「何が人生の変わり目なものか。初めというものはいつも少々の緊張感があるにしたって、所詮は私のずーっと続いている人生ではないか。そんなに人生観が或る日ガラリとかわるなんて事があるはずがない。まあ、名前の事では何やかやといやな思いをする事はなくなったにせよ、そうそう感動的な人生が私の前に現れる事なんてないし。学生でも社会人になったにしても、同じ、私は私だし、、。こんなもんか、人生なんて」と円子は思いはじめていたのであった。
緊張感が無くなったのは勤務先の行動ばかりではなく、アパートの独り暮らしもそれなりに慣れてくると、学生寮での共同生活より同居学生達の目が無いだけに、もっと時間をもてあまし気味になってきた。
人間とは勝手な生き物で、あんなに人目を嫌って生きてきたそれまでの生活よりも、それを出て先の社会人生活をしてみると今度は、その時で、またもっと一人身の退屈さを感じるようになって来たのは、円子が世間並みの一般人間と同じ感情を持ち合わせていたのに気が付いたといえるのかもしれない
「そうさ、人生なんて、何も特別って事はないのよ。そこら、ここらに特別ってのが転がってりゃあ、私だってそれを拾って、今更遠くの山奥に住み込みの仕事で行ったりしないもの。あんたが円子と言う名前である事だけが、特別っていえば、特別なんだよ。いつか解る時が来るかもしれない。こんなものさ人生ってのはね。先の人生が誰にだって絶対に確かな事に向かって生きてるって云える人なんかいないでしょうよ。こんなもんかいと聞かれれば、こんなもんさと応えるほかない。」と母親が独り身支度をして、自分という娘を後に残して、あっさりと引っ越してしまった時に云った言葉がよみがえった。

あら、またあの子だ。歌を唄いながら、また何かを植えている、というか土いじりに忙しいのね今日も。
今日はそっと彼女の側まで行って見てみようかな。丁度お昼時でスーパーでスナックと飲み物も買って、つでに明日の食事仕度食料品もみて、、そうだ、洗顔クリームも少なくなってたのだわ。
何だか急に、気分がそれまでに無く、明るい気分の定休日である。

「マサカリかついで、、お馬の稽古、、これから鬼の退治に出かけるよ~、一緒に来ますか、来ませんか~~」彼女の丸い小さな後姿が唄っている。
あれ、古い童話を唄ってる。でも金太郎と桃太郎の話がごっちゃになってて、可笑しい。
足音を忍ばせたつもりでは無いのだが、すぐ後ろに立って「知ってるわよ、私もその歌」そして「ハイシドードー、ハイドードー」と続け様とした時、振り返ったその子の顔が恐怖を顔面に表して後ろ向きにペタンと尻餅状態になったかと思うと、すぐさま四つばいになってから、立ち上がりざまにどっと掛け逃げてしまった。
やれやれ、またもや驚かしてしまった。人見知りの激しい子だなァ。
スーパーの返りに、彼女がまたもどってたら飴かお菓子を買ってきて渡してあげようかしら。でも、それだと何だか犬か何かを手なずける手じゃないかと思われるかしらね。知らぬ子に愛想を取り繕うなんておよそ私らしくない行動だわ。円子は苦笑した。
あれ、それにしてもこの畑の野菜は結構育って、収穫の後らしいわね。あちらこちらの野菜らしきものが引き抜かれてしまった後の穴が開いているし。

スーパーから戻った円子にはあの女の子の姿がそこに無いのを知って、軽い落胆のような想いがあった。
「あら、貴女もスーパーでお買い物?私も今そこから戻ったところなの」とサクさんがエプロン姿で、笑っていた。
「近所の小さな女の子の名を知りたいって、それはどちらさんのお嬢ちゃんの事かしら。え?いつも畑で土いじりをして遊んでいる子?歌をよく唄っているって、、。私が預かった日もある女の子ねえ。さァて、どこのお嬢ちゃんかしら。ウチには猫がいるから、滅多に近所のお子さんを世話する事もないので。貴女が引っ越して直ぐの事?嫌だ、そのころは私はずっとここを留守にしてますよって各家庭に回覧板まわしたじゃないですか。猫達もお友達にあずけて、実家の病身の姉を看護に行ってね、大変だった話を戻ったこの間皆さんにお知らせしましたでしょう。」
ああ、そうでしたね。うっかりしていました。
どこかのご家族のお子さんのお友達か、親族がいらしていたのでしょう。私の勘違いですと円子はサクに返事を濁したのだが、その短い会話でも、すでに円子の頭の中は混乱しきっていた。
思うに、今の円子の頭の中は、このアパートに来て直ぐの記憶と会社の勤務の事は記憶にあるのみで、或る時間帯、或る期間での独りアパート生活の実態が空欄になってしまったかのような感じがあるのだ。 あァ、どうしたというのか。
一体、私はどうなってしまったものだろう、何故、急に思考が、こうもアヤフヤになってしまっているのかに大きなショックと不安が、えも知れない恐怖を生み出して円子に襲ってたかのようで、体が小刻みに震え、まだ日も高い時刻だというのに目の前に黒い幕が広がり、体中から冷たい汗が吹き出してきた。
「どうなさったの。気分でも悪いのかしら。大丈夫?しっかりなさいね。お部屋まで一緒に行きましょう。お医者様、呼びましょうか?」
サクの声が少しずつ遠のいて耳の中で小さなエコーのように響いている。
次の瞬間には、あの女の子の歌声が耳の中から響き出して唄った。「ハイシードードーハイドードー~~・マサカリかついで、鬼退治~~、行きましょう。付いて来ますか、来ませんか~~」
そして円子の頭の中には、はっきりとその小さな女の子の顔のイメージが大きく広がった。
その顔に見覚えがあった。 そうだ、この子を私は知っている。この子は、、、。
それを口に出す前に円子の記憶は薄れ去り、また闇の中へと落ちていくのであった。

続く。