6/22/2009

円子の「こんなものかい」物語 その(5)


その(5)名札

「保志加さん、保志かさん。松谷さんでも知らない事は私に聞いて下さいね。私、この会社のアレコレにはちょっとばかり、詳しいんです。あ、ごめんなさい。驚かせたみたいね。私、香織といいます。喜多波香織。え?えェ、喜多波京子の縁続きなんです。ハトコかな、良く解らないけれど、まァそんなところです。私は京子さんとは親しい仲の縁続者ではないんですけど、どうやらこの会社でコネで入れたのは私と貴女と云う事らしいですよ」
笑うと鼻の上に小さな皺を寄せるのが癖らしい。隣の机の椅子をズッと円子の机側に寄せて、他人の目を逃れる為なのか頭だけを後ろ向きにねじった不自然な姿勢で、香織が円子の右脇に声を掛けて来た。
母親を早く亡くして父親に育てられたが、土木関係に勤めている気性の荒い父親とは成長するにつけて折り合いが悪くなってきて、母方の伯母の世話で高校を卒業して直ぐに京子の会社においてもらう事になったという。
円子が入社してから特に言葉を交わした訳でもないこの香織という女性が、まるで旧知の仲のように話しかけてきたのには少なからず驚かされたのだが、無口で人の影に隠れたように生きてきた円子にとっては自分から進んでは持てるはずも無い話し相手が向こうからやってきてくれた事には歓迎する気持ちがあったである。
自分が知らない行動であっても、多分こういう会話はなりでは普通付き合いとして一般的になされているに違いない。しかし、あまりにも無防備というか、あっけらかんとしているというか、この人は誰にでもこうして話しかけていくのかな、聞きもしない自分の家庭事情なんかだって、まるで人事みたいにスラスラと話すなんて、私には到底真似の出来ない事だ、と円子は彼女を改めて観察の目を持って見つめてみた。
「先日の松谷さんが皆さんに紹介した時には言葉も交わしませんでしたが、私の名前を覚えていて下さったのですね」
「まァね。だって、それに貴女が今、胸につけている名札、先月私が係りに頼んで作ったんですもの。名前くらい先にしっていたわよ。」
「失礼しました。」円子が笑顔で応える。
「ま、そう硬い物言いは辞めにして、お友達として気軽にいきましょうよ。この社内は自由にあちこち回り歩けるのが運動不足を少しは補えると思って、先輩の私としてはお茶は自分で何度も足を運ぶ事がお奨めなの。」というなり香織はそのお茶を取りに休憩室に向かって席を立った。
名札をオーダーしてくれた香織が私の幼少時代の辛い思いなど何にも起こらなかったかのように、名前の事に関して特に聞いたり、言ったりしなかった事が円子には嬉しかった。
ただ、ある一つの点のみが頭に小さなひっかかりのように残っていて、先ほどの会話を頭で反復してみた。
私がこの会社入る事を知ったのはつい2週間前であったはずなのに、何故、香織は私の名札プレートを先月には既にオーダーするよう命じられたのだろう。
最初に来た時には友人の啓真が彼の叔父で社主の高田栄哉に合いに来るつでに一緒してくれて社主に直接紹介してくれたのだから、高田社主とは無論のこと、この会社に来たのは初めての経験で、社のどの人とも初対面の人達ばかりではなかったのか。
そうか、一週間前を言い間違えたのもしれない。事を大袈裟に話す癖が付いているのかも知れない。香織が戻ったら、聞いてみよう。
香織は休憩室からまだ戻らない。多分途中で他の人から何か仕事を依頼されたのか、又は、あの気軽さで、雑談でも興じているのだろう。
後ろからポンと肩を叩かれて振り向くと、香織がコーヒーカップを手にたっている。「あら、休憩室に一緒に行けばよかったかしら。コーヒーで良かったら、これ、どうぞ。まだ口をつけてませんし。」
休憩室に向かった香織の後ろ姿を見送ったままの円子を見て香織が笑って言う。
「休憩室の廊下はこの部屋の両方から行き来できるようになってるのよ。本当は後方からの方が近いけれど、途中松谷さんともちょっと話してみたかったから、わざと前を使ったの。それでね、松谷さんはあと30分ほど他の課に寄っているから、貴女には私と一緒にこのフロアーの書類の説明を受けて下さいって言ってました。」
松谷はどうやら庶務課に在籍していないらしい。
それで香織は時々松谷の回る各課ではどんな噂話が出ているのか知りたがったのだろうか、それとも彼自身に興味をもっているのかもしれない。
「香織さん、先ほど私の名札プレートをオーダーしてくださったと言いましたね。それは一週間前の事でしたか」
「プレートが何か?手落ちでもありました?違いますよ、ちゃんと一ヶ月前にオーダー提出しました。一週間前なんてことないでしょう。」
香織は円子の質問の意味を勘違いしたのか、少し気分を害した風に返答した。
「あっ、そうでしたね。一ヶ月前。とても手早く仕事を処理なさるんだなァと感心したので。」
円子は香織の不満顔が笑顔にまた戻るのを意識しながらそう言った。
本当は誰が発注願いをして来たのか、彼女の雇用をどのように聞かされているのかを知りたかったのだが、また彼女の詮索や勘違い問答が起きるのを避けたい円子はそれで一応話を終えてしまう事にした。
香織は一旦円子にコーヒーをオファーしたのを忘れて、少し目を細めては一口飲み込んでから、また円子の方に向かい、貴女の前の机の主はダレソレで、彼女の生い立ちは、、といったおよそ仕事とは関係のなさそうな社員の一人一人について説明を始めるのだった。


続く。