私は極度の方向音痴である。加齢と共にその運転時での感覚障害が更に起こりやすくなってきているようだ。
何回同じ通りを運転していても、その日、その時の体調や感覚で、その風景が全く異なって見えたり、いつも見過ごしている一点が拡大視されたりで、つい通り過ぎたり、あらぬ方向に向かってしまったりするのである。
幼い頃に聴覚異常で通院をしたせいもあるのだろうか、又はソレに加えて弱視力もあり、とにかく私の平衡や、バランス感覚、それと凹凸の3D感覚にも時としてその正常を保てないものなのか。それは脳伝道回路シナプスの異常なのでは?と孫娘が笑います。そうかなのかもしれない。
アルツハイマー症を患った亡き父(そして、父方の祖父も)の血が私を軽症ながらその病の一端が表面化しているものかという考えも無いではない。
そういう脳の一部に接触害症があると感じて生活をするこの私が、その他の部分では多いに補いがなされているように思われる出来事に最近よく出くわすのが、若者達を含めて多くの人達が一面を見て全面を察するという事に不得手で、想像力が弱いというか、思考に深さが無く、アルファベット順に物事を並べたり、仕事の段取りをつけられなかったり、A点からB点に行く途中でアレコレ一緒にやりとげながら事を進めたりする事が出来ない人間の多いことといったら、笑い話にもならないほどなのだ。
簡単な例でいうと、名前がマークデザインされているキーチェーンが700個ほどが混ざって袋に入っているのをアルファベット順に仕分けして飾りつけるのに殆どの店員が2日かけても終われないという事実や、週セール宣伝タグ数百枚を店内の指定の製品に貼り付ける作業にしても、一目タグを読んでの判断が出来ずにいたり、時間のロスばかりのノロノロ作業を当然としていたりで、彼等の脳の大活躍を見る事は稀なのです。私が彼等の脳が大活躍していると感じる時は、人のゴシップをしている時と、自分の不手際の言い訳を考える時でしょうかね。
そう思うと、私が方向音痴であっても仕事を手早く終えることが出来るのは、多分に私は全てを感というものに頼り、信じてやっているからなのかもしれません。(という事はアンタも思考は深くないのでは?との声。その通りだと思いますね。)ですから私にとっては勘違いという事が一番の大敵なのかもしれません。おちょこちょいの私は仕事は速くても、この勘違というものをよくします。(でもまた直ぐに、しなおしてしまうので、目立たないのですね。ズルイか得かは、何とも云えませんが。)
無駄な二重手間をかけているだけのことなのかもしれませんが、仕事を終えるというところが前者とは違うわけだけです。
この方向音痴にしても、遠回りしたり、時間を費やしたりで、勘違いという部分では同等の脳活動だと思うのだが、今後の私の生活行動と日常態度がずっと外れて方向音痴にならない事を密かに願って止まないのが本音といったところ。方向音痴の私の今後はいかに、、、。溜息