9/20/2008

身障者受け入れ企画


勤め先のドラッグストアでは慈善事業一環の身体勝者を雇用勤務させる企画としてダウン症のMちゃん(16才)を週一日のトラックで山と運ばれる商品配送受け取り日にストック係として4時間程をフロアで勤務してもらっています。
私が今年でもう計7年間も勤めているWドラッグストアは全米に5000店舗もあり、このフロリダ州にはそのうちの700店舗もあるのですが、メディアにも大きく取り上げられ、賞賛されたこの軽度知能障害者や身体障害者を受け入れるプログラムを全米地区で始められてもう数年にもなります。
これらの不幸にして普通人間として扱ってもらえない人々が無理をしないで、社会の公的立場に置かれて、一つには社会と交わる場として、そして社会の一部として責任ある行動ができるようになるようとの配慮からの心あるプログラムの企画なのです。

このMちゃんは動作が鈍いながら、数時間の勤務を果たす事が可能なのですが、実際彼女は5才時の幼稚園児と同等と予想される知能の持ち主であると私は彼女の行動から感じています。
勤め当初は母親と、市の生活健康管理部の先生とで、やっと一つの商品を棚に商品番号を確認して整頓するという事を一緒にやりながら学んでもらい、以来数ヶ月経った今現在も週一には必ず出勤して来ているのですが、今は親も先生の同行もなく姉が彼女を店に降ろしていくだけとなっているので、今もって彼女の知能行動範囲では毎週やる事であっても、独りでは何も出来ない、まさに5才時のそれであって、時にはひどく精神不安定になるらしいし、怒りっぽくて、飽きっぽく、目を離すとふらふらとどこかへ歩き去ってしまったり、来店の客に話しかけては問題を起こしたりしかねず、廻り同僚達が彼女の世話係りにされたくないと逃げ腰なってきているのが事実なのです。

プログラムが始まった当初は、吾が支店もそれを快く受け、主任達初め世話好きなフロア責任者も張り切ってお世話を始めたのでした。
が、約数ヶ月、そして一年後には皆がそのプログラムにも慣れた事もあり、同僚とも親しくなるに連れ、Mちゃんの行動は最初の頃のプログラムの意気込み薄いでゆき、それを指導員はMちゃんが社会の一部として独り立ちできるとして認めたことのように、同僚たちも行動一つ、一つは監視しなくなりつつあり、それはある意味でMちゃんを受け入れた事がそのプログラム企画を成功させているかの様な錯覚を皆が、“慣れ”として受けていたのでした。
実際、Mちゃんの週一の勤務は彼女の家族の一員が彼女を店前まで送り届け、そして独りで勤務を終えたら、市のボランティアの担当有志が彼女を迎えにきて彼女の仕事振りが報告され、その時間のお手当てを受けるという形になって、家族や生活指導係りが彼女に付き添いをする事はなくなったわけでした。。
ところが、実際の彼女の勤務状況は5才児の枠を出て社会人として成長したという訳ではなく、ただ、当人も廻りの同僚もそのプログラムがもう新鮮な企画として受け入れをされてないという惰性のもとの錯覚であるに過ぎず、Mちゃんは相変わらず一つの行動をするという事が持続出来ず、かといって、同僚担当者が彼女を他同僚と同じく扱う事も不可であり、それ相当の忍耐が必要となってきて、彼女の出勤をそう待ち受ける事が出来ないでの数ヶ月であり、最近では彼女が出勤すると担当係は何かと理由をつけて彼女の世話係を拒む行動が見え、仕方なく一緒に行動してもMちゃん自身も勤務に飽きがきては、ちょっとの隙あらば、あちこちフラフラと徘徊して勤務をしたがらなくなり彼女から目を離さずに自分の勤務を遂行させるのが難しくなってきていたのです。

そのプログラムでなされていた棚一帯商品の整列に混雑の遅れが出だした事から私が急遽それを整理整頓する係りとされ、よってMちゃんが係りの同僚と一緒にビタミン・医療薬品棚をやる事となり、これがそのMちゃんの勤務企画を崩してしまう原因となった結果を出してしまったのです。
新しい仕事を全く理解不可なMちゃんは皆から拒否を受けたと勘違いをすると共に、言語行動をはっきり表現できない事からの彼女の苛立ちもあって、ダウン症には多い明るい表情も怒りと不満に変わり、暴言を吐いたり、何もしたくないと駄々をこねるようになり、遂には来店客にも迷惑をかけてしまうに至ったのでした。

そこでいつも困った時のプラン改革対策として――そう、この私にMちゃんの指導係りを任せたいとの支店長の新企画に、私は多いに驚き、少しの不満を覚えたのです。
私が指導係りになるのは、出来ない事ではないのですが、支店長初め、主任長、あと6人もの主任達が、何かの問題が出る度にその仕事を私に廻してくるのが、私には何とも遺憾なのです。何か不都合が起きる今あるその不都合を正す事をしないで、新しくやり替えるというのが、果たしてそれでいいのでしょうかね。
いつも彼等の対策行動として、『Aが駄目ならBでやってみよう。』というもので決して『Aが駄目ならAを指導して違うやり方をしてみよう。』というものではないのです。
何故かいつのまにか『駄目になったら、立て直しができるのは、、、』と何でもかでも私に押し付けてくる事が、私にはどうにも納得がいかないのです。

会社が決めて受けているこのプログラムに対しての受講もトレーニングも無しで、唯、「週一の数時間だけですから、一緒に指導してやって下さい」と云う。
今現在雇われている若者達のトレーニングも充分でなく、新人主任達も会社の方針なども学んでいないのが現状の中、勉強会や指導トレーニングは現場で覚えるのみとばかりのオペレーションがスムーズにいっているとは決していえない勤務状態が続いているのです。
という事は、私自身もこういったプログラムはどの様に扱うのか、どうやって身障者の教育の一環を、どの様に進めていくのか、などと考えると山程の課題があるわけで、それを私に指導してくれる手引きは何一つ渡されてはいないわけです。
これは受け入れ側の無責任な「安請け合い」としか云いようがありません。
こと、人間一人の人生がそこに期待されているわけです。
それを「たった数時間のことですから、貴女の経験と、性格が一番彼女を指導するに適切なのではないですか」とは、何なのだ‐と私は考えてしまった。
そう思って引き受けたプログラムはどうしてAが適任だったはず。それが問題が出てくると、他のものもそうなのだが、いつも私に解決を求めてくる、しかも何の予告予習も無しにである。
商品、在庫、価格相手の仕事であれば、「やってみましょうか」と即答する私も、今回は人間一人の生活一部を受けるのはそう安請け合いは出来ないのです。
しかし、事は来週からの急ぎのものとあって、これ以上は双方ともにこの企画を悪化させるわけにもいきません。
よーし、やってやろうじゃないの。でも、この私もこの休みに一日漬けにせよ、その対処を勉強してからにしなくては、Mちゃんに対し、そしてそのプログラム企画に対しては失礼ではないですか。
と、私はその覚悟を決めて、支店長に伝えたのでした。
多分支店長も他同僚達も「なんだ、大袈裟なんだから。自分の子供を扱っていると思えばいいんじゃないの」なんて考えているでしょうが、断固として云いますが、私はベビーシッターじゃありません。
そして、この企画の指導係はベビーシッターではなくて、あくまでも社会指導係りとしての違う性格の教える者、教えられる者の、上下はあっても同等の人間関係であり、子守と赤子の単にその状態を保つという上下関係ではないわけなのですから。

9/01/2008


兄からメールが来た。
最初メールの送り宛名が誰なのかピンとこなかった。
似たような名の友人が数名いるのと、兄からメールを受けるとは考えていなかったからだ。
内容を読むとその一行で、兄からだと気がついた。
メールの最後に彼の名が昔の呼び名で書かれていた。涙が出た。

今までに口に出して伝えた事はないけれど、私は私の二人の兄をそれぞれに心から敬愛している。
長兄、次兄とそして末娘の私は、この二人の優秀な兄達の下でいつもヒネクレ者として陰険な精神の子供時代を送ったと記憶している。
今までの私の生活に於いて、10才年上、いやもっと年上の部下を持った事のあるこの私であるが、この5才年上の兄と、わずか2才年上の兄ともに、妹の私を威圧する何か、それは決して悪い意味にではなく、彼らに対し権威のようなものを常に念頭に感じている。
この二人の兄に私は並みならぬ恩恵を受けて現在に至っており、日本の地を離れても彼らに対する感謝の意を一時も忘れた事はない。
この私の幼かった時代の懐古の恋と兄弟愛への想いは、忘れがたい昔の恋人を思うような感じとはこのような思慕なのかもしれないと思ったりもする。

病弱な母の入退院で家族が分散して生活した時期が長かったのにも一因があり、特別に密着心が強く仲が良い兄弟というわけではなかった。
薄給の教員家庭に生まれ、戦後の物資に恵まれない山村生活は決して豊かなものではなかった当時、母を助け、長兄は6才の小さな体にカメのネンネコ(注‐カメの形に似ている事から綿入れ仕立ての幼児を背負うに当て布物をそう呼んだと思う)幼児の私をくるみ背負って子守し、そのネンネコの丈が彼の背丈ほどもある為に、床にズルズルと引きずりながらの子守であったと、亡き母がよく思い出し笑いをしながら話してくれたものだ。
幼いベビーシッターであった兄に私がいつまでも親のような権威を感じるのはその頃の幼児の肌から頭脳に充分に感じ伝わった結果なのだろうと思っている。

次兄にしても、私が夢多き青春を、19才での渡米の際に彼自身も学生の身でありながら、しかもその時、健康を害して下宿先のお世話で入院という事でもあったらしいのに、アルバイトを続けて私の渡米資金つくりに奔放してくれたのであった。

この二人の兄達はそれぞれにまるで性格がちがっているのに、二人ともが学業優秀、絵画や音楽を愛する芸術家でもあり、私独りが劣っているとの思いに、この二人の兄が私には羨望と嫉妬の的であったのだ。
妹として生まれたことが、男に生まれて彼らと比較されないのを密かに喜びつつも、女に生まれて損をしているのかも知れないという思いが私の心の中にいつもくすぶっていた。
それが、語学と海外進出のみが私が彼らを追い越せるすべであるかのように、自分に思いこませたことが、現在の私の渡米生活40年に基盤しているといっても過言ではない。
現在をもってさえ、兄達は私にとっては友でも無く、仲間でも無く、唯々『敬愛の兄』なのである。
そしてこの兄達への思いが私を今日まで支えてくれているのである。