12/20/2008

ネズミ年を送る傷


さすりながら母が云う。「歳を取ると体のアチコチの古傷がね、、、痛み出すのよ、、。」
あれは、体の痛みと心の痛みとを一緒に消したくて、一種に母の儀式のようなものでもあったのだろうかと今、母のその頃と同じ年令になった私は思うのです。
こうしている日にも体のあちこちに痛みが現れおり、無意識に体をさすっている私がいます。
『ね、本当の話だと解ったでしょう。』と亡き母の面影が云います。
幼い時に起こった骨盤脱臼が毎朝の起床時にコツコツと音を立て、小学生時代に思いっきり走って転んだ両足膝の今でも残るそのアザの中から痛みが湧き出します。
歳を取ると良い事が少なくなって、体は悪くなるのを補っていくのが精一杯になる、だから楽しめる事、学べる事は先にやっておくと、それが古傷のかわりに楽しい思い出となって噴出してくれようとの母の信仰的思い込みもあったのだろうが、哀しいかな、晩年には「そうだね~。結局は良い思い出より体のガタが全ての過去のうわもてにもっと感じるようになると、それが何よりもえばり出して、せっかくのいい思いは遠のいていってしまう気がするのも確かな事かもしれないね」と遠くを見つめて話す様になりました。私には、あれは多分遠のいていった良い想い出を残る体力で追い駆けてみて、追いつかずの諦めの目であったように思われます。

私が転んだ傷跡のかさぶたをはがそうとすると必ずといっていいほど私をたしなめて言ったものです。「やめなさい。今わざわざ痛い思いを重ねる事ないでしょうに。遠い日にはそれがやがて痛みに変わる日がくるんだよ。今はその時までの蓋だと思って放っておくのが一番なんだから。殺菌後は自然が一番の薬だと思って毎日を暮らすのが利口な手当てだと私は思うけれどね。」
自然は誰彼にも平等に生を与えていて、その時期の長短やその生き様の大小は個人の生活状態の過去の表れとして体内から外に湧き出た現れなのだと言う。
でも生まれながら病弱な人もいるし、不健康体、不愚者に生を受けてしまった人達だっているではないかと十代の時の私が小生意気に反発感を述べると、それらの人達は心に大きな試練を受けて生まれ出るのだから、結局体内から噴き出る良い想い出は遠のかずに、体力との競争をする事を避ける常備があるのだと云う-だから今のその健康体を奢る事なかれ、という事らしい。

そういえば、、と鏡に映った自分の顔に見られるこめかみに薄っすらとニッケル銀貨大の円形茶色いしみは、痛みこそ無いけれど、単に「加齢によるシミ」といえるこれさえもが実は少女時代に噛まれた傷跡周辺がしみ化したものなのです。
噛まれたとは、一体何に、と驚かれる方を更に驚かせる事になるのかもしれませんが、このシミは実際、今の時代には想像も出来ないかもしれませんが、実は家屋根裏に数百匹と大家族をなして凄んでいた“ねずみ”なのです。
これの他に噛まれた二の腕にはその葉型が二つポツンポツンと対のホクロとなって残っておりますし、左薬指二の関節は関節炎が骨の異常を起こさせて今では結婚指輪を外しての生活を強いられています。
「ねずみに噛まれるなんて、、!」と何とも凄い極貧生活の上の傷と思われたかもしれませんが、特別そういう事でもなく、昭和半期に暮らした住宅は極寒の冬にはガタピシの縁側ガラス戸と更に雨戸の隙間から三角州状に家の中まで雪が積もっているのを見る事が容易な状況の公務教員住宅で過ごしたからなのです。
今でこそ、もうその後さえ偲ぶ事も出来ない街でありますが、当時は栄えて高給社員が高台に裕福な社員住宅を連ねる炭鉱町で、私達家族は父が当時は中学校教頭として学校前の公務員社宅に住んでおりました。
が、その住宅は一年を通してネズミが大運動会を屋根裏で催しており、毎日のように屋根裏からザザーッと数十匹、いや、多分数百匹のネズミが走り回る音が耐えず、その音からして飼い猫がそれらを退治するなどとは多勢に無勢の比であり、ネズミ捕り団子が役に立つほどはなかったのでした。
いわゆるドブネズミというやつなのでしょう。可愛らしいチロチロと走り回る小さい小ネズちゃんではありません。子猫より大きい、数十センチの黒い尾を持つ、本や布団、人形やその荷箱等その他、何にでも屋根二階押入れの品々にはあちらこちらに歯型で削り取られた跡がありました。
鋭い歯で、毎夜ガリガリと音を立てて木箱をかじる、一匹さえ畳の上を走るとざっと音を立てる爪を持つ、あのドブネズミの大群が同居していたわけで、あの手この手の退治作を立てたところで数は増えこそすれ減る事は無かったように記憶しています。
ある時期、私はその住宅二階を自分の部屋として使用していた時があり、当時から小児神経痛を両足に持つ私は極寒の冬は特に、その足の痛みで目覚める事が多くありましたが、その日は顔の痛みで目が覚めたのでした。
電気を附け、鏡を見ると私の左コメカミが異常にに腫れており、ぽつりと二つの対の穴から血が流れており、それが直ぐにネズミの仕業だと容易に知り得ました。
歯形状態から口の大きさをみるとかなりの大きいネズミだったのでしょう。
その後、私の様子をみて起きた母が薬で傷跡を消毒してくれ「寒くて手足は布団の中だったから、顔をかじったんだね。美人の味がしたことだろうよ。」といった慰め言葉に私が笑ったものでした。
その後2回ほど噛まれたのですが、(前記の指と腕)不思議とネズミを怖がったり、憎んだりした記憶はありません。
「あんなに大勢なら、皆腹ペコなんだろうなァ。食べ物はどうしてるのかなァ」と心配さえした私でした。(当時からちょっと、いえ、かなり変な子でしたから)
ただ、側の木箱をガリガリかじる音に私の睡眠は妨げられ、「うるさいっ!かじるのは日中にしなさいッ!!」と怒鳴った事は何度もありました。
私は当時から睡眠困難児でした。

母様の云ったとおりに顔のシミは色は薄くなった気はするのですけれど、何を塗ったところで取れませんし、腕には何の支障もないけれど、指の関節は異常で、痛みも常時あります。
この傷、あの傷のこちらの思い出、あちらの想い出が体の中から外体力となってに現れ出しています。そのプラス体力がマイナス体力に負けがちなのが口惜しくも諦める年令になったという事です。

もうすぐネズミ年にお別れです。
次の丑年には、どんな想い出が表れて私を楽しませるか、悩ませるのか、どちらにせよ、これが人生というものなのですね。
因みに私は牛さんとはあまり縁の無い生活をしておりましたから、それがどうこうとは思わないでもありませんが、ネズミの傷は今後も一生一緒に生活していくわけで、これは別に干支とは何の関係も無いお話であったかもしれません。
ただし、不景気風が人々の懐と心を思いっきり吹きまくったネズミ年、誰もが体の傷と心の傷を背負って生活している今、牛さんは私達をなんとか引っ張っていってくれるでしょうか、と目に見えぬ干支の牛に願いを込めた新年をもうすぐ迎えようとしています。

11/30/2008

500人に一人の心臓-その後


今から7年前の暮れの事でした。
当時54才の夫Donに余命幾ばくも無いとの医師の言葉を受け、手立てが無いながら、一応心臓オープン手術をしてみて、治療対策を設けようとした医師団の目にレントゲンにも映らなかった異例の動脈が、その死滅した他の動脈の替わりに活動しているのが発見されたのでした。
急遽その場で4本の菅にバイパスを通し、動脈2本をその奇跡の動脈に切り替えられ、夫の心臓は500人に一人の奇跡として、僅か2ヶ月の自宅休養のみで職場復帰をはたしたのでありました。
当時彼の手術担当心臓外科医には「本当に、奇跡の復活です。これで貴方の心臓はあと10~15年は大丈夫、その後は様子次第でまた手をつくしましょう。」とおっしゃたのでした。

多量の投薬を受けながら、残る60%の心臓はその奇跡の動脈に助けられて日常生活を続け、その後は無事勤務先U航空会社のフロリダ地区及び南米責任区長としての激務から早い退職をし、その後は最寄の州立ブロワード地区大学航空課の理事庶務課長として勤務を続ける事となったのでした。
彼の大学での務めは数年間に渡って作り直しされていなかった航空課のマニュアルを作り、政府関連機関に提出する2年間計画から始まり、それに重ねての仕事は他航空会社機関からの飛行機及び部品の受け入れをしたり、新しい設備改良をしたり、各高校からの大学授業受け入れ機関の設置やで、これまたストレスがかかる激務となったのでした。
が、それでも彼はその仕事にドップリとつかっているようで、航空会社での世界中を回っての激務とは違って、家庭生活と合わせて精神にバランスが取れているものか、その激務には充分耐えうる様子で楽しんで勤務をしている風でもありました。

世は不景気風に喘ぐこの年、歴代的なアメリカ大統領選挙の年であり、8年間に渡るブッシュ政権に私達家族の家計にも多いに影響を及ぼしていて、私と彼は打倒ブッシュ政権を胸に、バラック・オバマ大統領候補とジョー・バイデン副大統領候補の応援に夢中の毎日が私達の精神を支えている部分が多いにありました。
夫のU社退職一時金の約50万ドルはその半分以上もの減額となり、毎月のペンションさえが2千ドルもの減額が政府U社倒産防備企画として私達の懐から返金交換条件とされ、早い退職でU社建て直しに協力した夫には更なる仕打ちとなったわけです。
8年前には国庫金に余裕があったのが、ブッシュ政権の政経の下、今現在は多額の国庫負債にあえぎ、大会社や高額収入者優勢時事に庶民は益々暗闇の生活を強いられ路頭に迷う人々で溢れ、暗澹とした時勢となったのでした。

その様な2008年の秋、夫はいつもの月一の定期健診日で、これまたいつものように投薬の確認をしたり、採血テストの結果打診があって、その後直ぐに帰宅するつもりで勤務先を早めに出たのでした。
当日は私もドラッグストアの勤務日でしたので、帰宅前に夫からの電話があった時には「ミルクが無くなってるから買ってきて」との買い物リクエスト伝言だと思って電話に出ますと、いつもの声が云いました。「今日は家に帰れないそうだよ。いつもとちっとも変わりが無いのに、EKGに不正心音波が出ているとかで、担当医が心臓外科医に打診してね、このままクリニックから向かいの総合病院の心臓外科に即入院なんて云ってるんだ。明日には絶対ここを出て見せるから、心配しなくていいよ。ホント何とも無いのに医者が帰してくれなくて大弱りさ。」
エッ?何とも無いのに即入院なんて事あるわけないでしょう。 一昨日も風邪ぎみなんだといってとても辛そうでしたよね。夜中に嘔吐をもよおして睡眠もあまり出来ないでいるのを私はちゃんと知ってるんですよ。このところ苦しそうにしたり、疲労感に早くに就寝する日が増えていますしね。
頑固が服を着ているような貴方のことです。「いや、本当に何とも無いよ」と無理に作り笑いをしながら、倒れたりして私を驚かす日がこの所多い気がしていますよ。

病院に面会に行くと、仕方なさそうに両足を投げ出して不満顔がベットに腰掛けています。担当医と心臓外科医が話しに来ると云っていて、彼は帰宅の掛け合いをするつもりで憤慨満々な面持ちで待ち構えているのでした。
なかなか医者達が来ないので、部屋通路を通る看護婦さんや、医療係り人を捕まえては「医者が来なければ、もう直ぐにでも帰宅したいのだけれど」と言い張っている夫が何をそんなに慌てているのか、私にはちょっと理解しがたい思いで一緒にそこにいるしかない私でした。
これは、後日知ったのですが、8年前の心臓手術成功の際に、その優秀な心臓手術にかけては名医と云われているお医者様が「これで、余命半年から余命10年になりました」と云われていたのを彼は考えて、再入院が何の意味も無い事を知っていたからだったようです。

そうこうしているうちに3時間も待ったでしょうか、総合病院心臓外科医のドクターが来て云いました。「帰宅したいのですと?何とも無謀な事をおっしゃる。貴方の今の心臓は停止状態に等しいのですよ。今こうして生きているのが不思議なくらいの状態である事を知って下さい。たった今この部屋から出て、その廊下で倒れ死ぬ可能性だって充分あるのに、医者として私はそのような無謀を許可する訳にはいきません。今夜からここに入院して、次の心臓手術の話し合いを明日からでも準備しなければなりません。私は貴方の以前の心臓外科医とは親しい友人ですから、彼と貴方の担当医、そして以前の心臓担当医とも明日にでも懇談会をもつつもりです。とにかく、今日貴方を退院させるつもりは無い事を心に命じてください。奥さんもそのつもりで彼をサポートしてあげて下さい。」と私にも彼の入院の駄目押しを出したのでした。
頑固な夫も渋々「もう一度テストをお願いします。それによって今後の治療を決めるようお願いします。兎に角、私は再手術は考えられないし、今は気分も悪くないので、家庭通院で充分に思っています。」とその夜の入院を承諾せずにいられないと観念したようでした。
翌朝、週末であったこともあり、私は朝早くに病院に面会に出かけました。
夫は「病院は退屈な所で、まったく嫌になっちゃうよ。今日こそ絶対に家に帰してもらうと断固宣言しなくては、何とも無い体調がこうしていると悪くなって来そうだよ。なんだ、あの医者はこの私を愚か者呼ばわりするなんて、まったく都合の悪い医者に出会ってしまったものだ」なんて相変わらずの憎まれ口をきいています。
午前中にテストの小手術があり、その手術回復室で結果を待っていると、例の『明日にでも貴方は命が持たないかもしれない』と脅かした心臓外科医がやって来て、「私個人としては貴方をこのまま入院させたかったのですが、マイアミ大学心臓外科医とも、貴方の担当医連たちともの話し合いで、貴方はこのまま家から通院させる事に話が決まりました。しかし、約束して頂きたい。今週中には私のクリニックで更なる心臓検査を受けて、治療法を決めさせて下さい。」と彼に伝えたのでした。
「あ~。帰れるのですね。ありがとうございます。今週一杯は勤務も休みます。そして投薬も欠かしませんし、そちらの検診にも必ず行きますので、大丈夫です。」と彼。「帰宅おめでとう、良かったですね」と言われた看護婦さんにまで「お世話になりました。帰宅と聞いて皆さんの美しい顔がはっきり見えました。」なんて馬鹿な応対をしている夫でした。

家に帰ってからの彼は別に今までと変わったところが有るわけも無く、一日半ダースのビール、一箱のタバコを欠かすこともなく、勤務に戻ってからは何ら以前と変わりがない激務生活に戻っています。
その週の例の『明日死ぬかも医』の検診では「やはり、以前のバイパスその他の手術の管は全部ふさがりもう機関としては用を足しておらず、心臓死滅細胞も半分は絶滅していて、この先心臓移植以外では再手術は無理という見解になりました。毎日の投薬を欠かさず、一日一日を大事に生活して下さい」との説明があったといいます。そしてその日の心音波検査もメチャクチャのまま、生きているのが不思議なまま彼の生活は続いているのでした。
検診から帰宅した夫は「だから言っただろう。自分の体はやはり自分が一番解っているのかもしれないね。」と格別落胆した風でもなく、ただ、今週か、来年か、2年後かもと、自分の余命が確実に短くなったという事を認める結果となった事だけは確かでした。

そうこうして2008年もあと数ヶ月、彼の体調は変わらず、良い日と悪い日は交互に波のように現れては消えしており、連れ添う私も加齢と共に体調不振もあって、数年前のようにバリバリ働く元気人間から遠くなりつつありましたがそれでも平常生活を送る毎日を暮らしているのです。
11月大統領選挙がオバマ&バイデンの大勝利を収めるにあたり、私達の将来への光もチラリと見る思いに、多くの米国民がなんとかこの不景気を乗り越えて行こうという意気込みがみなぎる中、その日は彼の担当医が3ヶ月に一度の検診日でした。あの入院事件以来、担当医も一応、匙を投げた形におかれたものやら、月一の検診は3ヶ月に一度の度合に変えられました。
と、ところがです。この日の検診ではまたもや異常時に、、。
また入院か?と驚かれないで下さい。
実は、またやドクターが首を傾げて不思議がる奇跡が起きたのです。
「えっ。何でかしら。心音が平常です。健康人のそのものに戻っています!」
いったい、どの部分が何をしているのか全く医学的には説明がならないとの事です。
「8年前にも驚かされたけれど、またまた一体、貴方の心臓はどうなってるのかしらねェ」と担当医は半ば飽きれています。
でも、今週か来年か、2年後かのじみょうには変わりは無い訳ですが、それはそれで、どのような人間でも明日の命はわかりませんから、彼の心臓が半分は死滅していても生きる条件としては皆と同じになっているのでしょう。
それにしても彼は本当の意味で500人に一人の心臓の持ち主だとまたもや痛感したのでした。

いるのですね。天使が。
無宗教の私達にもどこかで、誰かが、何かが私達の生活を見守ってくれているのかもしれません。
夫の心臓状態を思うたびにそう思う私です。
2度目の子育てをしている私達。3人の孫達は成長してあまり手がかからなくなっていますが、やはり神様は「いや、まだすっかり終わっているわけではないよ」とおっしゃっているのかもしれません。
まだもう少しは頑張っていけそうです。多分、、、。

10/12/2008

接触の一点

コーヒーを飲みながら、秋の週末の光を受けて、ゆったりとした時間を楽しんでいる私の目にある新聞記事が急にクローズアップして飛び込んできたのでした。

ロサンゼルスツアーバスハイジャックを企てて妻を殺害、そして後にはトリカブト毒で愛人を殺害の三浦和義被告がLAの監獄内にて自殺とあります。
驚きました。しかし、彼がこちらのOJシンプソンのような犯罪の闇を潜り抜けて法の網を交わしつつ生き延びようとした殺人鬼である事は皆の承知とするところです。
ネットで日本人の方達の反応を見てみると、何も事情を把握していないヤカラが「彼は日本とアメリカに殺された」などと書かれているのに、また驚いた次第です。
何をおっしゃいますやら。彼の残忍性をそんなふうに世の責任とばかりに摩り替えられてはたまりません。

私、実はこの当人にあった事があります。
というより、誘いを受けた事があります。(殺人の誘いではありませんよ、念の為。)
当時私はハワイ・ホノルル支店の旅行会社に勤めていたのですが、当時のその旅行会社はワイキキの中心地であるビルの9階にありました。
私はその日にワイキキのカラカウァ沿いに建つプリンセス・カイウラニホテルにて早朝の旅行者の送り出しがあり、ホテルに向かう途中の事、カラカウァ通りで信号待ちをしているところ、後ろからムウムウの-それは当時の旅行会社のユニフォームだったのですけれど、つままれた感じに振り向くと、中年男性が立っており、その男は更に肩の布の感覚を見ているかのように手を小刻みに往復しながら言うのです。「失礼。私は日本でこういった布や洋服関係の者なんですよ。これから朝食に行くところなのだけど、一緒にどうです?」
私は内心で「触るなッ。本当に無神経で、失礼なヤツ。それに朝からナンパをするとは何事なのよっ、私がその手のお姉さんに見えたとでもいうのか?」とムッとしていました。
(後で知ったのですが、私は彼と同年らしい)
「これから仕事がありますので、急いでおります。さようなら。」と私は顔を信号の方に向けたのを覚えています。
「仕事?(この言葉を彼がどう思ったものか解りませんが)そうなの。(なれなれしい言葉付き)ほんと、行かない?じゃあ仕方ないか」と彼。信号が青になって私が歩き出しても彼は、そこに立ちつくしていたと記憶します。
その日一日私は心の中で毒ついていて、気分の悪いムッとした思いをひきずっていました。「しかし、あの手のお仕事お姉さんに思われたとは、、なんでなのッ!」と、いまいましくその男の顔を思い浮かべては苦々しい気持ちを何とか抑えていたのです。
家族旅行も多いハワイではそれ以上に愛人との旅行や、はたまた男性が夜のお遊びの女性を探すヤカラも多く、それなりの女性もホテルを行き来していましたから、当時でも冠婚数年ベテラン妻である私も当時はちょっとは見栄えが若かったのでしょうか、よくそのような誘いを受ける事がありましたので、そんなに青筋たてて怒るほどの事ではないと数日後にはもうすっかりその日の事を忘れていました。
が、その男の顔を後にテレビで見るとは、、、。
ということはですよ。あの殺害された愛人というのは、やはり私のように話しかけられて「お食事OKで~す」とついていった人なのかしらん。ややっ、これは何とオッソロシイ事じゃないですかァ。フ~ム。
しかし、何故、あのような事件に手をかしたりしたのかしら。そして殺されてしまった。私には到底理解出来ない心理です。
欲と色の犯罪、その舞台もインターナショナルとあって、何ともドラマにしてさえも、「わァ~。何だかあまりにもドラマっぽくって、人間心理に欠けているよね~」と他人は表現しそうですよね。
えてして人間心理というのはそうも浅くもあり、そして反面では深いものもあったりで、犯罪心理というのも一口で説明をつけて、その憶測でしかドラマに出来るものでもないものなのかもしれませんしね。

私の人生でふと街角で犯罪者との接触の一点であったと、今ここにその時を思い出して書き記す事にしました。もう30年近くも昔のある接触の一点でした。

10/06/2008

化粧



家でぼんやりと10日間ほども暮らしていて、筋力が体中から溶け流れ出てしまったかのようなデレンとした活気の無い姿が鏡に映し出されている。
入浴と髪をブラシで撫ぜるくらいはやっていたが、化粧などはずっとせずにいた。
もし家人と一緒に同居していなければ、多分寝巻きと家着を取り替えるのも面倒な私である。
家族の手前、皆より一応は早起きをして、学校やら勤務やらには見送りをするのだが、笑顔造りをしようにも顔の筋肉さえも「唯今お休み中」と額に張り出しが出ている様なのかもしれないとさえ思ったりする。

「アンタはズボラだねェ。化粧をすると結構他の女性から見劣りする事が無いと私は思うのに、男の兄弟の中で育ったせいなのかね。」と結婚後に帰郷した際化粧をしないでいる私に云った事がある。
自分では気にもせずにいたのだが、私の満面にそばかすがあるといって、驚いていた。
その母は朝どんなに早く起きても、家事をし始める前には手早く化粧を済ませていた。
自分の為に化粧している訳ではないと母は云った。
毎日、食事の用意の買い物にご近所に出る事や、突然の来客やら-教職者の父が教員達を自宅に前触れも無く連れてきてはよく酒盛りの場になった-また、その婦人会の集まりや、本心では進んで交わりを共にしたいわけでもない町内会の会合やらもあったり、加え親族の訪問も受けたりしていた。
自分の容姿には少々の劣等感があると云う母は「むさ苦しい自分の顔が皆さんの心に自然に受け入れられるように努力する義務がある。」と信じていたのだ。
病弱で何度も入退院をしていた母の体はあちらこちらに手術痕があり、皮膚細胞も多くの投薬や治療でボロボロであり、どんな強力な乳液も、どのような新薬配合化粧水にしても、彼女を若々しくは保つのに役立っているとは到底考えられなかった私であった。

先日の事、母が私に云った言葉を思い出させる機会にあった。
それは地区開催教育一環の“子供に親の職場を体験させよう”とのスローガンのもとになされた子供職場体験日の出来事であった。
私は勤務先のドラッグストアでその支店長の9才のお嬢さんヴィクトリアちゃんとレジスターを受け持った。暫く客足が途切れた頃、彼女を退屈からしのぐべくお絵描きをする事にした際に、彼女が見せてくれた女性の顔の絵には満面にボツボツとペンで点がついている。
「まァ、上手に描けたわね~」といいながら、何故かその女性の顔に更にボツボツを入れ続けているヴィクトリアちゃんを不思議な気持ちで眺めていた私であった。
「はい、これで出来上がり。この絵ウチにもってかえって家族にもみせます。」と彼女が嬉しそうに笑った時、その絵の女性は紛れも無く、この私である事に気がついたのだ。
あァ、子供の目には私の化粧下のそばかすが側に居る事からもはっきり見て取れて、それが私の顔の特徴であるとしっかり捕らえていたのだ。
家に帰って私はあらためて鏡の覗いてみた。
ヴィクトリアちゃんにはお友達として認められたそばかす顔、でも接客係りとしての私はその勤務の顔造りは怠っていたのかもしれない。
が、その時、そう反省したのにも関わらず、今も私の化粧時間は長くても10分といった簡単なものなのである。
それでも自分の為だけに化粧をしているというより、勤務へ出るという私の心構えのようなものだと思っている。
因みに私の勤務先でのタイトルは“美容相談員”である。
しかも、化粧品売り場の担当をする事な滅多に無い。
日本での美容員とは大違いで、私が勤めるドラッグストアでのシニア美容員はこれまた素顔女性なのである。これは何だか矛盾していると思われますが、彼女の化粧商品知識や接客売り上げ力も高く、人気の店員でもあるのです。

もし人間独りで、孤島に住んでいるとしたら、対人関係での化粧は無しとしても、護衛としての化粧を自分に施すかもしれません。
やはり、化粧が人間生活と文化の流れを時と一緒に送っていると云わねばならない。
化粧はある時は自分の心を豊かに、生活を楽しませてくれる手段であり、自分の生き様を反映しているものでもあり、周りをなごませてくれる力もあるわけなのですね。
「死ぬまで、そちらで自分の生活に合った心と外見の化粧をしなさいよ。自分の為ばかりではないんだから。」と母の言葉が聞こえてきそうです。
教えて下さい母上様、-あちらの世界では化粧はパーマネントで、つけたり、落としたりなどはしなくても良いのでしょうか。

9/20/2008

身障者受け入れ企画


勤め先のドラッグストアでは慈善事業一環の身体勝者を雇用勤務させる企画としてダウン症のMちゃん(16才)を週一日のトラックで山と運ばれる商品配送受け取り日にストック係として4時間程をフロアで勤務してもらっています。
私が今年でもう計7年間も勤めているWドラッグストアは全米に5000店舗もあり、このフロリダ州にはそのうちの700店舗もあるのですが、メディアにも大きく取り上げられ、賞賛されたこの軽度知能障害者や身体障害者を受け入れるプログラムを全米地区で始められてもう数年にもなります。
これらの不幸にして普通人間として扱ってもらえない人々が無理をしないで、社会の公的立場に置かれて、一つには社会と交わる場として、そして社会の一部として責任ある行動ができるようになるようとの配慮からの心あるプログラムの企画なのです。

このMちゃんは動作が鈍いながら、数時間の勤務を果たす事が可能なのですが、実際彼女は5才時の幼稚園児と同等と予想される知能の持ち主であると私は彼女の行動から感じています。
勤め当初は母親と、市の生活健康管理部の先生とで、やっと一つの商品を棚に商品番号を確認して整頓するという事を一緒にやりながら学んでもらい、以来数ヶ月経った今現在も週一には必ず出勤して来ているのですが、今は親も先生の同行もなく姉が彼女を店に降ろしていくだけとなっているので、今もって彼女の知能行動範囲では毎週やる事であっても、独りでは何も出来ない、まさに5才時のそれであって、時にはひどく精神不安定になるらしいし、怒りっぽくて、飽きっぽく、目を離すとふらふらとどこかへ歩き去ってしまったり、来店の客に話しかけては問題を起こしたりしかねず、廻り同僚達が彼女の世話係りにされたくないと逃げ腰なってきているのが事実なのです。

プログラムが始まった当初は、吾が支店もそれを快く受け、主任達初め世話好きなフロア責任者も張り切ってお世話を始めたのでした。
が、約数ヶ月、そして一年後には皆がそのプログラムにも慣れた事もあり、同僚とも親しくなるに連れ、Mちゃんの行動は最初の頃のプログラムの意気込み薄いでゆき、それを指導員はMちゃんが社会の一部として独り立ちできるとして認めたことのように、同僚たちも行動一つ、一つは監視しなくなりつつあり、それはある意味でMちゃんを受け入れた事がそのプログラム企画を成功させているかの様な錯覚を皆が、“慣れ”として受けていたのでした。
実際、Mちゃんの週一の勤務は彼女の家族の一員が彼女を店前まで送り届け、そして独りで勤務を終えたら、市のボランティアの担当有志が彼女を迎えにきて彼女の仕事振りが報告され、その時間のお手当てを受けるという形になって、家族や生活指導係りが彼女に付き添いをする事はなくなったわけでした。。
ところが、実際の彼女の勤務状況は5才児の枠を出て社会人として成長したという訳ではなく、ただ、当人も廻りの同僚もそのプログラムがもう新鮮な企画として受け入れをされてないという惰性のもとの錯覚であるに過ぎず、Mちゃんは相変わらず一つの行動をするという事が持続出来ず、かといって、同僚担当者が彼女を他同僚と同じく扱う事も不可であり、それ相当の忍耐が必要となってきて、彼女の出勤をそう待ち受ける事が出来ないでの数ヶ月であり、最近では彼女が出勤すると担当係は何かと理由をつけて彼女の世話係を拒む行動が見え、仕方なく一緒に行動してもMちゃん自身も勤務に飽きがきては、ちょっとの隙あらば、あちこちフラフラと徘徊して勤務をしたがらなくなり彼女から目を離さずに自分の勤務を遂行させるのが難しくなってきていたのです。

そのプログラムでなされていた棚一帯商品の整列に混雑の遅れが出だした事から私が急遽それを整理整頓する係りとされ、よってMちゃんが係りの同僚と一緒にビタミン・医療薬品棚をやる事となり、これがそのMちゃんの勤務企画を崩してしまう原因となった結果を出してしまったのです。
新しい仕事を全く理解不可なMちゃんは皆から拒否を受けたと勘違いをすると共に、言語行動をはっきり表現できない事からの彼女の苛立ちもあって、ダウン症には多い明るい表情も怒りと不満に変わり、暴言を吐いたり、何もしたくないと駄々をこねるようになり、遂には来店客にも迷惑をかけてしまうに至ったのでした。

そこでいつも困った時のプラン改革対策として――そう、この私にMちゃんの指導係りを任せたいとの支店長の新企画に、私は多いに驚き、少しの不満を覚えたのです。
私が指導係りになるのは、出来ない事ではないのですが、支店長初め、主任長、あと6人もの主任達が、何かの問題が出る度にその仕事を私に廻してくるのが、私には何とも遺憾なのです。何か不都合が起きる今あるその不都合を正す事をしないで、新しくやり替えるというのが、果たしてそれでいいのでしょうかね。
いつも彼等の対策行動として、『Aが駄目ならBでやってみよう。』というもので決して『Aが駄目ならAを指導して違うやり方をしてみよう。』というものではないのです。
何故かいつのまにか『駄目になったら、立て直しができるのは、、、』と何でもかでも私に押し付けてくる事が、私にはどうにも納得がいかないのです。

会社が決めて受けているこのプログラムに対しての受講もトレーニングも無しで、唯、「週一の数時間だけですから、一緒に指導してやって下さい」と云う。
今現在雇われている若者達のトレーニングも充分でなく、新人主任達も会社の方針なども学んでいないのが現状の中、勉強会や指導トレーニングは現場で覚えるのみとばかりのオペレーションがスムーズにいっているとは決していえない勤務状態が続いているのです。
という事は、私自身もこういったプログラムはどの様に扱うのか、どうやって身障者の教育の一環を、どの様に進めていくのか、などと考えると山程の課題があるわけで、それを私に指導してくれる手引きは何一つ渡されてはいないわけです。
これは受け入れ側の無責任な「安請け合い」としか云いようがありません。
こと、人間一人の人生がそこに期待されているわけです。
それを「たった数時間のことですから、貴女の経験と、性格が一番彼女を指導するに適切なのではないですか」とは、何なのだ‐と私は考えてしまった。
そう思って引き受けたプログラムはどうしてAが適任だったはず。それが問題が出てくると、他のものもそうなのだが、いつも私に解決を求めてくる、しかも何の予告予習も無しにである。
商品、在庫、価格相手の仕事であれば、「やってみましょうか」と即答する私も、今回は人間一人の生活一部を受けるのはそう安請け合いは出来ないのです。
しかし、事は来週からの急ぎのものとあって、これ以上は双方ともにこの企画を悪化させるわけにもいきません。
よーし、やってやろうじゃないの。でも、この私もこの休みに一日漬けにせよ、その対処を勉強してからにしなくては、Mちゃんに対し、そしてそのプログラム企画に対しては失礼ではないですか。
と、私はその覚悟を決めて、支店長に伝えたのでした。
多分支店長も他同僚達も「なんだ、大袈裟なんだから。自分の子供を扱っていると思えばいいんじゃないの」なんて考えているでしょうが、断固として云いますが、私はベビーシッターじゃありません。
そして、この企画の指導係はベビーシッターではなくて、あくまでも社会指導係りとしての違う性格の教える者、教えられる者の、上下はあっても同等の人間関係であり、子守と赤子の単にその状態を保つという上下関係ではないわけなのですから。

9/01/2008


兄からメールが来た。
最初メールの送り宛名が誰なのかピンとこなかった。
似たような名の友人が数名いるのと、兄からメールを受けるとは考えていなかったからだ。
内容を読むとその一行で、兄からだと気がついた。
メールの最後に彼の名が昔の呼び名で書かれていた。涙が出た。

今までに口に出して伝えた事はないけれど、私は私の二人の兄をそれぞれに心から敬愛している。
長兄、次兄とそして末娘の私は、この二人の優秀な兄達の下でいつもヒネクレ者として陰険な精神の子供時代を送ったと記憶している。
今までの私の生活に於いて、10才年上、いやもっと年上の部下を持った事のあるこの私であるが、この5才年上の兄と、わずか2才年上の兄ともに、妹の私を威圧する何か、それは決して悪い意味にではなく、彼らに対し権威のようなものを常に念頭に感じている。
この二人の兄に私は並みならぬ恩恵を受けて現在に至っており、日本の地を離れても彼らに対する感謝の意を一時も忘れた事はない。
この私の幼かった時代の懐古の恋と兄弟愛への想いは、忘れがたい昔の恋人を思うような感じとはこのような思慕なのかもしれないと思ったりもする。

病弱な母の入退院で家族が分散して生活した時期が長かったのにも一因があり、特別に密着心が強く仲が良い兄弟というわけではなかった。
薄給の教員家庭に生まれ、戦後の物資に恵まれない山村生活は決して豊かなものではなかった当時、母を助け、長兄は6才の小さな体にカメのネンネコ(注‐カメの形に似ている事から綿入れ仕立ての幼児を背負うに当て布物をそう呼んだと思う)幼児の私をくるみ背負って子守し、そのネンネコの丈が彼の背丈ほどもある為に、床にズルズルと引きずりながらの子守であったと、亡き母がよく思い出し笑いをしながら話してくれたものだ。
幼いベビーシッターであった兄に私がいつまでも親のような権威を感じるのはその頃の幼児の肌から頭脳に充分に感じ伝わった結果なのだろうと思っている。

次兄にしても、私が夢多き青春を、19才での渡米の際に彼自身も学生の身でありながら、しかもその時、健康を害して下宿先のお世話で入院という事でもあったらしいのに、アルバイトを続けて私の渡米資金つくりに奔放してくれたのであった。

この二人の兄達はそれぞれにまるで性格がちがっているのに、二人ともが学業優秀、絵画や音楽を愛する芸術家でもあり、私独りが劣っているとの思いに、この二人の兄が私には羨望と嫉妬の的であったのだ。
妹として生まれたことが、男に生まれて彼らと比較されないのを密かに喜びつつも、女に生まれて損をしているのかも知れないという思いが私の心の中にいつもくすぶっていた。
それが、語学と海外進出のみが私が彼らを追い越せるすべであるかのように、自分に思いこませたことが、現在の私の渡米生活40年に基盤しているといっても過言ではない。
現在をもってさえ、兄達は私にとっては友でも無く、仲間でも無く、唯々『敬愛の兄』なのである。
そしてこの兄達への思いが私を今日まで支えてくれているのである。

7/26/2008

頑固者


医療情報や栄養安健関係を知るのは、私の半ば趣味のようなものでもありますが、闘病記とかの日誌風本を繰るのは決して好きとは云えません。
そんな私ではありますが、今ここにソレらしきことを記するというのは、ひとつには私自身への言い訳のようなものもあるかもしれません。

健康維持体制には口を挟むことを許されないのが、吾が夫の「ガ・ン・コ」を自でいく生活といったところです。
「妻たる者、夫の健康管理に励むのはある種の責任」などと思う人は多いはず。
でもですよ、我が家訓としてはですね、「自分の限度を知り、無理をせず、かといって、自分を怠け者に仕立てることは厳禁。自分の健康は自分で管理すべし。」とあります。(暗黙のルールではあるのですけれど)
この、先頭にある‐自分の限度‐というところに、それぞれの判断落差があるわけですよ、これが。(あたりまえ)
続く‐自分で管理すべし‐も「安易な投薬や誤報情報に惑わされる事なく、自分の体との対話改善が望ましい」という意味なのですがね、これにしても、かなり個人差によって、ファジーなところがあるのがお解かりかと、、、。
さて、上記の件を踏まえての今回の夫の入院騒ぎにとりかかります。
お話します、という状況より、とりかかるといった私の心情なのですよ、これが。

もう7年前になります。夫Donの40%もの死滅した心臓細胞を除き、残るパートをフルに活用すべく手術が行われたのは。
当時は「多分、生きてあと10ヶ月程が精一杯」と云われた手術でしたが、彼の生命力の強さからか、頑固一徹さからか、その判断は神のみぞ知るといった状況で、奇跡的生還を遂げ、今日に至った訳です。
以来、彼の中には「せっかく頂いたオマケ人生なのだから、大事にしていこう」と、いう心境だったのだろうと、人々は思うはず。ところが、ですよ。
「オマケ人生は自分のしたい事を楽しんで、一生懸命家族と暮らそう」という名目は似にして、異ならずと云いますか、非にして、比ならずといいますか、、。
前回の手術時は彼のU社での激務が最高潮に達した頃でした。責任感が人一倍強い彼のこと、通常なら1年間はたっぷり滞宅休養をするのが一般的療養にもかかわらず、2週間の入院後、2ヶ月間の在宅療養し、これ以上の療養無用と判断、その激務に戻っていったのでした。
その後年内に諸事責任をかたずけて、この国では異例の最も早い年令退職生活を選んだのでした。
その後、家でのんびり隠居生活などとはいかず、彼の貧乏性と、勤勉家精神もあって、現在の職務に着いたのですが、6フィート、2インチの身長、一時は210ポンドもあった体型は心臓に負担をかけないようにとの思いから170ポンドになったのは良しとしても、これまた数々の激務、負担、責任がストレスをもたらすにあたり、更に、彼の「オマケ人生をしたい事をする=毎日タバコ2箱、ビール10缶」悪しき嗜好精神も害をなし、今回の入院が待ち受けていても仕方がないと誰にも思えたはずなのです。
彼の頑固は徹底したもので、係り医が強制的に禁煙を試みたのも無駄に終わり、つい先日彼のプロジェクトである「フロリダ州立ブロワード大学航空規定改新版」を政府関係及び大学に提出するという大仕事をその時に終えたと同時に一時的に気が緩んだものか、それまでのストレスが表面化したものなのかもしれません。

月一の定期健診に出かけた彼、「普段通りに検診に来たら、心電図が凄いことになってるから即入院と云われて、向かいの(係り医オフィス建物の向かいが総合病院なのです)馬鹿みたいに病院着を着せられて、点滴やらなにやら、管つけられて、大災難だよ。今晩は泊まって行きなさい何ていわれたけれど、何時になるか解らないけれど、極力帰宅するようにするから。」との私の勤務中の携帯に伝言されていました。
後、家族に連絡が入り、即、病院に向かった私の前に不機嫌顔の彼が「Dr.Gはいつ来るのか。特別心臓医のDr.Uに早く私を帰宅許可を出すように連絡して下さい」と検温や点滴チェックに来る看護婦や係りの人を、呼び止めては、苛立った声を出しているのでした。
はたまた、数分おきには電話をかけて婦長さんや、事務維持者までにも「私の帰宅許可証を早く作ってください」などと催促する始末。
何とも、いわゆる“ヤナ、患者さん”態度をこうも維持しているの彼でした。

そうこうしていると、やっとDr.Uが現れました。「私は医者として、貴方をこのまま帰すわけには行きません。一歩病院を出た時に貴方が死んでしまっては私は責任を取ることができませんから。」
貴方の命は今日、明日かぎりなのかも知れないのですよと案におっしゃる。
「しかしですよ、こうしていても余命短いのなら、家でゆっくりして暖かい中で死ぬ方がいいじゃないですか。」とDonは後には引かない。
「貴方は知識人と思われますが、この病院は多くの優れたスタッフがいつも貴方を見ていますし、私はこと心臓病にかけては専門医として腕があると自負しています。せめて、7年前の手術に緩みや、故障が起きていないことを確かめる必要があります。では、こうしましょう。明後日最新心臓探知機や医療機が全てある、東側総合病院に貴方を移しますから、そこで私に心臓を検査させて下さい。私はマイアミ心臓病院にもいましたから貴方の前の心臓医とも連検します。処置はその後で決めましょう。」と言い残して不満げにお話をして彼の気持ちを何とか長期入院にしたい様子があらわなのでした。「では、その検診手術後は帰宅させて下さい。あとの医療は外来として真面目に通院いたしますから。スタッフや医者に不満があるわけではないのです。兎に角、私は病院が嫌いなのです。」
殆どの患者さん達が「貴方のような技術を持ち合わせた心臓医に診てもらえるとは光栄です。どうか、どうか宜しくご配慮お願い致します」と家族共々涙してその命をDr.Uに委ねられたに違いなく、吾が夫のごとき無礼者、認識不足、医療拒否者と接見の場をもってしまったのを内心で「この愚かな頑固患者にどうして対応して負かせる事が出来ようか。」と腹立たしく思っているのが察しられ、その目で私を見据えて『何とか貴女、ハズバンドを説得したらよい者なのに、、どうなの?これでいいの?』と云っているのが側にいる私には解るだけに、思わず目を合わせないように下にうつむいているしかなかったのでした。

その朝、一時検診手術が終わったとDon当人から電話が入った時、私自身は気疲れか何か精神的不安定状態がもたらしたものなのかもしれません、ベットの上で動けずにおり、側の電話へベットからごろんと転げて下に降りて、やっと電話にたどり着いたしだいです。
そして、これまた彼も麻酔がまだ体を不自由にしていたらしく、呂律が回らないまま、やっと理解できたのは「あと6時間は動いてはいけないのだそうだ。でも今晩はどうしても帰宅するつもりだから、着替えを持って迎えにきて」との事。
手術回復室の彼の側に行くと「実のところね、前の手術医が云ったよ‐この手術であと8年は大丈夫。10年はちょっと、考えるけれど、それまでに新しい医療が出来ているから大丈夫だよ‐ってさ。」
ああ、それでか。思い当たることがある。
ここ数年の常日頃に「私はあと10年後にはここにいないと思うよ。確かなんだ。」と口にしていたのは。
「私自身はね、段々色々な症状が加齢と共に表面化してきたと思うけれどね、調子のいい時はあと30年は軽く行けると思うけどなァ。ま、寿命の時がくれば、それが寿命なんだからね、仕方ないよね。ま、その時、その時で生きるしかない。」と応えていた私です。当たり前な、半ば無意味な夫婦の会話です。

その夕方、無理押ししたせいか、何か他の思惑があってかは定かではないのですが、「帰宅許可でましたよ」と告げられたのです。
必ず3日後には定期検査として、係り医Sのオフィスで検診を受ける事、そして1週間後には心臓医Uのカンセリングを受ける事を約束させられてです。
そして、係り医Sの検診から帰った彼、「ドクターが云うには、検診手術の結果はとてもきれいなものだったって。あんなに心電図が滅茶苦茶でも、前の手術には何の支障も欠陥も起きていなかったってさ。で、この次の検診はいつもどおり月1にしますと。勤務にも戻っても差し障り無いってさ。で、月曜から普通にまた出勤するんだよ。」係り医は悪い椎間板ヘルニアの手術の話ももう持ち出さないし、彼に劇薬(モルヒネ)の痛み止めを投薬してくれました。
ん?あれ?そうなの?
彼は嬉しそうにしているけれど、これって何だか変じゃない?
来週に控えるDr.Uのカンセリングがなんだか気にかかる。
え?もしかして、ドクター3者会談で、彼の心臓がこれ以上の更なる手術は無理という判断になったのでは?彼の思い通りに活かして(死なせて)あげようという事になったのでは?それを彼自身が察しているのではないのかしら?
私が勤務から帰宅すると「ありがとう」と彼がお花とクッキー、チョコレートを私に買ってきてくれていました。明日は一緒に外食に出かけて欲しいと云います。
子供達にも何だか、急に優しくなって、私にはいつも「子供達にあれこれ買い与えるのは控えるように」といっていた彼が今日は「明日子供達が何か欲しい物があったら、買ってあげなさい」なんていうもので、子供達は「いやァ、何にも欲しい物は今無いから、いいよ」なんて、、。どちらも何だか、不自然なんですよねェ。

これからまた、どうなりますやら。
あれこれ考えたところで、事態は変わらないわけですし。
私達は1日を1日ずつ事を考え、理解し、受け止めて毎日を暮していくしか無いのですよね。
それが、人生というものですものね。
今更あたふたして、どうなるものでもないのは解りきっています。
しかし、吾が夫は筋金入りの頑固者でありますよ。 誰もが呆れ顔で、きっとそう思うでしょう。
きっと神様も呆れて、「まあ、それはそれで善しとして上げなさい。人間は人それぞれ、千差満別な不欠陥なものですから、彼は彼自身の考えもあるでしょう。成る様に任せてやろうじゃないですか、彼は神様じゃないんだから。」と云って認めて下さっているでしょうか。

6/29/2008

年令と権利


父が35年間の教職を定年退職した時の年令なのだ。と我が身の還暦を別の意味から改めて考えさせられたところです。
退職後の父は、惨めな老人生活を送ることを事恐れていたらしく、頭髪の無い頭に若々しいスタイルをとカツラを着け、ダブルのスーツをポロシャツに替え、母を連れ立っての旅を楽しむ生活に切り替えたのでした。
が、その後に渡日した私の目には、何故か両親が退職後の生活を無理やり他の人への建前をつくろっているとしか映らなかったのも事実です。
ガスの検査人や食品配達の人達に「私達は老人夫婦二人の生活ですから、重いものは貴方が運んで下さいよ。」とか「老夫婦のみの在宅ですからメーターの周辺の雪かきはそちらでお願いします」とか、「そちらでは老人ケアサービスは無いのですか」などと、相手が「大丈夫です。こちらでそれはいたしますから」と言ってくれる前に、毎回先に駄目押しをするので、相手の方は「はい。いつもの通りに致します。」と驚かれたりするのであり、こうも毎回『老人、老人』を連発する父を少々疎んだ目でみているのは側からも見て取れるのでした。
若い時から権力的で自己中心的な性格もあったことも手伝っての事か、他人に頼らずに自力で若々しく生活を送っていこうと云った、あの思考は何処へいってしまったものなのか、、、と私は心の中でその度思ったものでした。
「自分で老人であるという事を強調しなければ、どんな権利も受けられないのだ」と強く信じている父であったのです。
しかし、その権利(?)を主張する事によって、また自分をもそのような怠慢な行動にも慣らし、全てを他人を頼ってしまう自分への脳トレをしてしまったいたのではないかと私は密かに疑っているのです。
若いから、女性だから、老人だから、忙しいから、好みじゃないから、、とあらゆる『だから族』が自分の能力、労力を出し惜しみして、権利の主張の代弁とするようですが、それが妥当なバランスをもってなされているかというと、決してそうでも無い事が多くあるものです。
「お父様は若者に席を譲り、ご自分を老人と認めていらっしゃるのはご立派ではないですか」とある方がおっしゃったのですが、私個人の意見としては、まだ自分の能力がある人間がどのような形にせよ、それを権利をもって発揮すべき場所が違うような気がするのです。
個人の体力や性格や多々の違いもふまえても法律をもって、その年令によって公使される権利とは別に、お互いの思いやりや、助け合い精神や、生活の知恵がどの年令にもあてはまるという自然体慣習が、世に広まる事というのは、単なる理想論でしかないのでしょう。
「私は貴方より2倍も3倍も年上です。これは若い貴方が出来てしかりの労力ですよ。」と試しに職場で若者に言ったら「とんでもない!貴方と同じことが出来るようになるのは、あと何年後かも」と当の若者が応えたのでした。これは年令に寄る経験というものらしい。
この先も老人としての権利は主張しきれないでいるに違いない。
こうして、私の暫くは”老人”にはなりきれないでいるのかもしれない。

6/14/2008

コメディ 米国スットコドッコイ政権


「怖いですね~。恐ろしいですね~。さて、これからの続きはどうなりますでしょうねェ。では、お楽しみに、ご覧ください」と、思わず映画評論家淀川さん口調が出てきました。
2008年六月に共和党クスニッチ衆議院が読み上げに5時間半にも及ぶ国会ブッシュ大統領解任提示案にであります。
35もの条例を掲げたもので、「何たる悪行の数々、決して許すまじき行いに、この桜吹雪も黙って聞いてはおられまい。」と遠山の金さんも片肌脱いで乗り出してきそうなものでありました。
ま、遠山の金さんはこちらにいないから(当たり前だ。日本にだって、テレビの中にしか居ないのだ。)誰に乗り込んで貰おうか、、。
ランボー、ロッキー、ハワイアンファイヴ、(ここらは古いねェ)、スーパーマン、バットマンなんかを総動員したところでこの相手はもっと手強くて、退治ならないのではないかしらん。怪物でありますよ。悪魔の親分証明賞を胸に着けているヤカラなのでありますからして、5時間半もの抗議文なんて一吹きで吹き飛ばすか、フッと一火をもって焼き消すのは至極簡単なものなのです。

めげず、その悪行に揚げられたのはでありますが、まず、電々会社結託盗聴で、数年前のニクソンのウォーターゲート盗聴事件よりもっと幅広く私的利用のためにCIAを使ったり、公的立場権力で圧力をかけるなどして、かなり悪どい手を使ったとか、その大会社との結託工作は金融会社、オイル会社、戦闘機会社等などと大資金会社の利益のみ優先のもので、低所得者や一般所得者には苦しい世相を生み出したのであります。
一番の国家政権利用悪は必要の無い戦争を勃発し、何千人もの犠牲者を出した事もひどい話で、軍事費用に多額の公庫金を使う事で、医療年金を減額せねばならない事情に陥らせ、更に科学省が地球の温暖化の警告発表には聞く耳を持たずについには何度も申請していたニューオリンズでの水害耐防作警告にはその大水害が起きた時すら「天災には防ぎようもなかった」などど自分はヴァケーションと楽しんでいての発表は言語道断。
大勢の低所得者が死亡した事には上面の供養訪問しただけで、その後の災害補償金が減額されたり、国に裂かれた家族達が未だに全国に散らばって行方不明者も多い状態なのである。
あの時の多くの死亡者だ出たのは確実に人災であったのだ。守ってもらえると信じていた多くの人々が、自国の軍に銃を向けられ監禁状態で見殺しにされたのだ。

大統領選挙での不正投票には今年で8年の任期が終えようとしている今に至っても、このような不正があって良いものか!と怒りを抑えきれない人達がやっとその悪行を国会に提出出来る様になったものだが、この提案が進行する事は先ず無いだろうと予想されております。
ノーベル賞を受けたゴー元副大統領や前回のキャリー大統領候補の選挙対戦もブッシュ政権下の不正投票数で勝ち取り、国民を騙し続けてのこの八年間の大統領椅子の悪政を無理強いした結果が今の最悪時勢となっているのを尻目に、「任期は後半年だもんね~。あとは宜しくやってよ。金持ちのお友達をさんざん世話してやったから、退役しても私は安泰だし、やれやれ。」なーんて感じなんであります。
選挙者候補読み取りコンピューターの仕組みを工作して対候補者に投票するとその票はちゃっかり自分の方の票に摩り替わるという仕組みにしたり、(それである地区はマイナス数票が出てのびっくり事件)既に死亡者名を復活投票させたり、あちらの地区とこちらの地区で同じ投票者にダブル、トリップル投票させたりの、もう、しっちゃかめっちゃかなのであります。
ブッシュ政権は何とも彼の周りで利益と私欲を肥やそうと社交して群がる大会社の連中ばかりに都合良く見図られたものでした。

日本でもその昔「貧乏人は麦を食え」とのたまったお偉いさんがおられましたけれど、こちらはそんな生易しいものではなく「貧乏人は国の不利益。死ねッ」を地でいったようなものです。事実沢山の命がこの政権をもって散りました。
ブッシュ大統領と副大統領チェニーはどちらも一つの悪(チェニーの悪知恵がブッシュを支えていてですね)狐と狸なのであります。
先日のニュースインタビューで、「この8年間の政権下で沢山の命が犠牲になりましたね」との言葉にチェニーが言い放ったのであります。顔に笑みさえ浮かべて「だから何?So ?」と。驚きましたッ!
ンったく!この狸がッ!この~ッ!と私がいきがったところで今の政権ではまだこの状態が続きそうなのです。
「のう、お前も悪よのう」とブッシュ狐殿が云えば、「この家老の私に万事まさせなさいませ。殿には悪いようにはさせませぬゆえ」とチェニー狸家老、そして「わはははーーー」と両人が笑うのであります。
しかし、どうして腹黒は「わはははーー」と陰で大笑いするものなのだろうか。
が、この狐と狸は陰で大笑いするというより、公然の場でも大笑いするのだから、これまた恐ろしい。

5/10/2008

お笑ーハチャメチャ城内


あれ、姫にはご機嫌も麗しくご帰還あそばれましたか。
して、昨夜の宴会はどのようなものでありましたか、随分お疲れのご様子。
我等シモベの者と致しましては、姫のお体を案じ、また明日からのご修業に差し障りがない事を願って止みませんぞよ。
「我の物に触るでないぞ。苦しゅうない、下がりおれ」と申しましても、このような見苦しいちらかりようのお部屋では空気も濁りましてございましょう。
何卒、ちとはご自分の身を清めるべく先のお支度をもなさいませ。
電気板により姫の州統一試験最多点獲得の情報を知りましたが、これからも気を緩めずにご学業にいそしみますよう。
家徳に難の波が寄せている昨今、我々の副業では到底姫や弟ギミ等の育成案じられます。どうぞ、どうぞ、ご自分でご自分の身を守るべく修行に励まれませ。
「夏季は充分の暇が出来るゆえ、時給20ドル位のアルバイトはないものかえ」などとは恐ろしや。
そりゃァ、姫が特別賞に輝いたバトン剣士でありましたゆえ、教えをこうて町娘達が時給20ドルもの教えを授ける得がございましたのも事実ではありますが、それはそれ、今や不景気の波風がどこもそこもに吹き渡る巷にございますからして、今の世をしっかりとご自分で見極めることが寛容かと思うのでございますよ。現実は私の副業でさえその半分以下の給金なのでございます。 姫には、しかと世のありていを知り、その巷の波風にも負けぬ気丈さを身におつけなさりませ。
「一ヶ月に400ドルのおこずかいでは、携帯電話料金を払ったら、残りはほんの少しになってiポッドの音楽を買う事も難しいのです。」とおっしゃいますが、では、携帯電話はテキストだけになさいませ。iポッドの音楽はお父上のをお使いなさいませ。化粧品などはこのシモベババに副業店頭にセール出しになっているものを頼みませ。書籍は本屋からネット購入するより、公図書書籍場よりお借りなされませ。お友達姫君達との茶屋でのお食事は辞めて、ご自分で料理の腕を磨きませ。大演芸場にお出掛けも避け、芸事はご自分の電気板でご覧になってはいかがでしょうか。大枚払っての運動芸妓場(スポーツジム)も今では無用の場所となっているではないですか。このような無駄使いを省いたら、毎日を悠々暮らしが出来ると思うのは、このシモベババばかりではありませんぞ。
あの、上から読んでも、下から読んでも‘老家老’の苦虫を噛み潰したようなお顔を御覧なさいませ。姫の将来を案じてあのような嫌味ジジ顔になったのですぞよ。既にお解かりのことでしょう。
家老はあの顔で生まれてきた訳ではありませぬことを。私とて、しかり。
昔は「お若き美しきシモベ様」などと持てはやされた日もござりましたが、今はすっかりくたぶれ申し、、お、いやいや、顔すがたの事を話しをしたかったのではなくて、、さて、何の話でしたか。
姫の父上の無責任殿ぶりにも心を痛めてこの私にさえプレシャーをかけて止まない、あのような嫌味ジジ顔になったわけで、心の中はあのような嫌味は微塵にもないのですけれど、姫や弟ギミ達にも解っては頂いていないのが無念に思われます。「ええ、解っていてよ。もう、いつも、いつもうるさいほどにね。」と口だけでおっしゃいますな。
「解っているなら態度で示そうよ、ほら皆で示そうよォ~」というわけにはいきますまいか。

こうして、シモベババはK姫のプィと向けた後ろ姿を見送ったのでした。

生類哀れみの条を大幅に見送った、吾が城内の飼い犬&飼い猫はかろうじてその条例を知り得る、家老とこのシモベババが目をかけておりますが、最近は我々同様、年を重ねて体力低下に気落ちするこの頃、夏の暑さに負けないで欲しいもの。
ここ、フロリダの夏は馬鹿アッチ~ッのであります。

おお、弟ギミのSがハワイ手持ち縦琴(ウクレレ)を弾いてオリマスゾ。来月から無責任殿が二人の子殿と一緒に西洋手持ち縦琴(ギター)を学ぶとかで3本もの手持ち琴をネット購入したそうな。
学ぶことは良いことには違いなけれど、彼等の将来や学業を考える事をしない、J殿の反現実的生活とその計画性生計無能にはつも振り回されている我等、家老とシモベには多難のハチャメチャ城暮らし、これがいつまで続くものかと、皆の暮らしを案じて止まない日々なのでありまする。嗚呼。

4/18/2008

心の買い物籠

何かお探しですか?

一週間に一度はセールの宣伝紙からクーポンを手に、店内をふら~っと品探しをしている頭に白いシャワーキャプ式ターバンにパジャマ風家着姿の老婦人が現れる。
私が側まで行って「何かお探しですか。お手伝いいたします。」と言うと、ちょっと驚いた目を向けてから「これ、このクーポンにある石鹸はどこかしら」と遠慮がちに聞かれた。
「それは、次の棚にありますので、ご案内いたします」と私。
その石鹸といつも買われているらしいジェローの箱をもってレジスターに来られた彼女が、私の顔をまじまじと眺めてから言う。
「実はね、いつも余り体調が良くなくてねェ、今日はやっと外出できたのよ。癌なの。独り暮らしなので生活品が切れたときに丁度娘が遊びに訪ねてくれた時だと、娘に買い物を頼むのだけれども、彼女は隣町に住んでいて自分の子供達との生活がとても忙しくて、気の毒だから、なるべく自分の事は自分でと思っているんだけれど、今朝はちょっと大変だったの。」
よっぽど誰かと話をしたかったものか、体調が悪いといいつつも私に話す時間が長くなっている。
いつも来店すると若い店員達はそ知らぬ顔で、応対も悪く、探す品を見つけるのに右往左往していたのが、今日は声をかけられて驚いてしまったのだそうだ。
その後、私の勤務時に合わせて来店するようになり、先ず私の所で自分が購入したい品のクーポンを見せて私の案内を受けてから買い物をするようになった。クーポンの隅にペンで『前棚7右中』とか『後壁棚右下』とかを書き込んでからそこへ向かうのである。
そして会計の際は必ず自分の体調や日常の出来事を手身近なりに報告してお帰りになるのだ。

ある月曜日の午後の事、その日は私のカウンターに先に寄ることもなく自分でさっさと必要品を見つけることができたらしく、例のターバン姿ではあるが、何か以前とは違う明るい笑顔に輝きを見た。
「あのね、いつからかこの頃はずっと体調が好調でね、先週お医者様に言われたのよ。癌がどこにも見当たりませんって。それでね、娘家族と友人達が私に完治パーティーを開いてくれるのよ!」
細くて真っ白い顔面には頬が赤みを指し、目が輝いており、今までの憂鬱顔が笑みで体中が明るさを加えているのが見て取れたのである。
「おめでとうございます。良かったですね。見るからにお体の様子が完治されたことを表しているようですね。それは楽しいパーティーになる事でしょうね。本当にお幸せで私も心から嬉しいです。」と応えた私に彼女は細い両腕を広げてカウンター越しに私の顔を引き寄せ、頬にキスをしたのでした。
その後娘さんと一緒に来店して、楽しそうに買い物をなさっていたのを何度が見かけた。その度に私を見ると手を振り笑顔で『今日も元気よ』のサインを送ってくるーあの数ヶ月前の憂鬱顔がまるで嘘のように。
良かった。そんな日は家族や友人達の愛情には過酷な病状をも伏せてしまう力があるのだと確信出来るのである。彼女の探していたのは何よりも、そういった廻りの愛情だったのかもしれない。
ところで貴方は何をお探しですか?

3/09/2008

文句あっか!その5 こらっ!

現在年齢11才男児、13才男児、そして16才女児の3人の孫を彼等の誕生から育てているのを理由に大の子供好きと勤務先のドラッグストアでは思われている私である。
しかし、実のところは祖母として彼らを可愛がるというよりも、母親代理なのが自然と躾けや教育係としての責任から彼等を厳しく育てているのかもしれない。
我が家は彼等の母親と私は母親役と祖母役(そういう役があったとして。平均家庭に於けるそれぞれの立場という意味で)をすっかり入れ替わっているのである。

確かに子供、特に幼児がその親達と来店した際には、つい私の目じりは下がり、意識せずとも満面に笑みがわいてきて、何か話さなくてはならない気持ちにさせられるチャイルド・パワーの魔法にかかってしまう。
それは、それほど子供好きの性格ではない暮しをしてきていながらも、今では子供を見て、親としての責任を問うことなく、第三者のような目で子供を愛でる事が出来る、一般家庭での祖母役をしているような気持ちになれるからなのに違いない。

先月の出来事であるが、うちのボーイほどの年令らしき男児が店先に来て、市バス停はどこかと誰と無く問う。朝9時半頃だっただろうか。最寄の中学校は先5マイル程の所にあり(車で10分もかからない)、さして遠くはないのだが、徒歩となると、20~30分はかかるかもしれない。
中学校の始業時間は9時なので、この児は新入生なのだろうか、それにしても親の付き添いがない。
彼が続けて言う。「W中学へバスでいくのにはいくらかかりますか?今持ち合わせがないのだけれど、、、。」
「バス停はこの向かいだけれども、W中学に行くには、また乗換えが必要よ。ほら1ドルあげるから、これを使うといいわ」と気の毒に思った店員がコインを手渡した。
その会話を聞いていたレジスターに立っていた客が「ボク、(と彼に向かって)私は中学の前を通るから、そこまで私の車に乗せてあげようか」と申し出てくれた。
私達もその客に礼を言い「ボク、良かったね。そんなに遅れないと思うよ」と激励して見送ったのだった。

ここまでだと、親にも世話をしてもらえない新入生の子供を皆で激励した良い話なのだが。
ところがである。
先週の事、その児がまた朝の10時頃来店したのである。
そして、また同じ事が繰り返されようとしていた。その児は私に見覚えがなかったらしく、「W中学へ行く市バス停はどこですか。いくらかかるのかなァ。お金の持ち合わせも無くって、、、。」と言います。
私はとっさに心で思ったのです。『あのねェ、またなの?あの時だって、親切なオジサンに車で送ってもらいながら、受け取った1ドルはそのまま持っていったじゃないの。』
「バス停はこの向かいよ」と私。
「向かいって、そのバスはW校に行くなかなァ。バス料金も足りなくって、、、。」と彼。 更にあちこちを見回していて、バス停を指した方向をも見ないで、『誰か、お金くれない?それに車に乗っけて連れて行ってくれる人はいないかなァ』と目が云っている。
「だったら、歩く事ね。急いで歩けば若者の貴方の足で20分もあれば充分到着するでしょう。大丈夫、私もここらを良く歩き回って、知っているは。安全地帯だし、お天気も良いしね。急げば2時限には間に合うはずヨ」と応え、渋々店の外へとノロ歩きをしている彼の背をポンと叩いたのでした。

我が家の場合、中学生のシャーンはしっかり者の優等生で(少々小心者でもあるのですが)、朝寝坊をする事は今までにも全く無く、出勤前に登校せねばならない高校生と小学生の二人は(この二人はシャーンと性格が少し違っていて、似た者性格ともいえますが)私が車で送りますがウチの中学生のシャーンも毎平日を大人達が出勤した後に独りで登校支度をし、朝ご飯を食べてスクールバス登校をします。
もし、仮に彼がスクールバスをミスったとしたら、シャーンはどういった行動に出るでしょうか。多分私に電話をして来て、私が店の外出許可の下に彼を迎えに行って学校に連れて行くと思います。私にはそれだけの外出許可を得るのは容易な事ですし、しかも職場から家までが車で4分の所にあるのですから。

前頭の中学生は寝坊の常習犯なのでしょう。この児が何度ドラッグストアに現れて、何度この手を使ってそれに味をしめてのことなのかは解りませんが親達が出勤の後、スクールバスに乗り遅れてしまったにちがいないのです。他人の親切を当てに詐欺行為をしたことになります。
彼はスクールバスに乗れなかったことを親にも話してはいないかもしれません。
話せる状態に無いものか、親が何とも手立てを考えてくれないものかのどちらにせよ、この児が他人を騙して生活を送ることが当たり前となるのが、何と哀しいことではありませんか。
「そんな小さな事で目くじら立てるほどのものじゃないでしょう。薬品を常用したり、恐喝をしたり、はたまた銃で乱殺事件が起きる昨今、こんなのは可愛い子供の小さな嘘として、見守ってあげましょうよ」と仲間達が言います。
えっ?こういう小さい事でも、それは心の問題として、将来を不安にさせられるのですが、それは、私が心配性だからなの?
そうでしょうかねェ。 私としては、嘘をついたり、自分のミスを何とか人に頼って正当化しようとする行為は、今のうちにも正しておかなければ彼の将来にプラスをもたらすとは、到底思えないのですが。
もし、また私が出勤でない時に同じ行為を彼が繰り返したとしたら、私の話を聞いた後でも、彼にお金を与えたり、学校まで車で送っていく手立てをしてあげるのかしら。
それこそ、こらっ!です。

2/17/2008

天使の加護



「一昨日、ご婦人が貴女を訪ねてきましたよ。」と同僚が休み明け出勤の私に伝えてくれました。家族以外では勤め先に私を訪ねてくるという知り合いは、いないに等しい私にはそれが多分ドラッグストアにとっての常連客の一人であろう事は容易に察しがつきました。
午後にヴァレンタインデーの品定めに忙しい客がごったがえす棚を見直しているところへ、その方が現れました。
彼女は近くのシニア文化分譲ハウスに住む70代のお洒落なご婦人です。
年中をクルージングと海外旅行を楽しみ、教会夫人活動もしておられる、素敵なシルバー市民なのです。
病院通い疲れからか、生活拒否人生からか、苦虫を噛んだような顔つきの不機嫌極まる老人客が多い中、このご婦人はいつもシルバーの髪の波型も素敵なヘアスタイルで、アイライナーで目元はすっきり、赤い口紅がよく似合っていて、その日のドレスに合わせたアクセサリーも華やかで、老後を明るく有意義に暮しているであろう事が一目で見て取れる風貌がワンダフル・シルバーというに相応しいご婦人です。
「私が暫く体調を崩して寝込んでしまった後の来店時に、貴女が私の体調をとても心配してくれて、『でもね、私には天使が守ってくれていると思うのよ』、と言ったら。その時私が着けていたネックレスを貴女が『本当に。その天使も一緒ですものね。きっと早い回復がありますよう。』と言ってくれましたね。私は今はすっかり元気になりましたよ。それでね、この天使は今度は貴女と貴女の愛する人達を守ってくれるだろうと思って、貴女にこれを貰っていただきたくて来店したら貴女はお休みだったので、今日また来たのですよ。はい、これ。」と“天使”のネックレスを手渡してくれました。
「インターネットで買った安物だけれども、私はこの天使はとても加護深いと信じているの」と彼女。アメリカ女性にはこういう縁起を担いだり、人を思いやって天使のグッズを渡す人は多いわけで、それは多分に日本人が同じよう“お守り・お札”を貰い受けてくれるのと、その心情は同意のものなのだと私は思います。
勤務先では、もっぱら時間の都合や状況に於いてのみ、来客と会話するわけで、私自身の個人的な話は来客とする事はまずありません。彼女は私の名のみ(ネームタグから)知っているものの、個人的な事を会話する事はまずありませんので、私の事を薄幸な東洋人なのかもしれない、と思っての好意であるのかもしれません。しかし、それであっても、彼女の優しい心には充分の感謝を感じ、帰宅後は夫や家族にこの心優しいご婦人の好意を話したのでした。
その話しから、子供達が他人をも思いやる気持ち、自分の幸を他の人達とも分かち合うという行為を少しは理解してくれたら良いものです。
「僕なら、そんなに自分を守ってくれるラッキーチャームなら他人になんかあげずに自分でずっとキープしておくけれどなア」とは一番幼い11才の孫の弁。
君はまだまだ人生の修行がこれからなんだよねェ。
この子達が自分を愛し、人を愛し、動物や自然を愛し、平和共存生活を分かち合える事を願う気持ちを毎日の生活の中に芽生え、はぐくみ育てていって欲しいと“天使の加護”を願う私です。

2/10/2008

文句あっか!その4 方向音痴


私は極度の方向音痴である。加齢と共にその運転時での感覚障害が更に起こりやすくなってきているようだ。
何回同じ通りを運転していても、その日、その時の体調や感覚で、その風景が全く異なって見えたり、いつも見過ごしている一点が拡大視されたりで、つい通り過ぎたり、あらぬ方向に向かってしまったりするのである。
幼い頃に聴覚異常で通院をしたせいもあるのだろうか、又はソレに加えて弱視力もあり、とにかく私の平衡や、バランス感覚、それと凹凸の3D感覚にも時としてその正常を保てないものなのか。それは脳伝道回路シナプスの異常なのでは?と孫娘が笑います。そうかなのかもしれない。
アルツハイマー症を患った亡き父(そして、父方の祖父も)の血が私を軽症ながらその病の一端が表面化しているものかという考えも無いではない。
そういう脳の一部に接触害症があると感じて生活をするこの私が、その他の部分では多いに補いがなされているように思われる出来事に最近よく出くわすのが、若者達を含めて多くの人達が一面を見て全面を察するという事に不得手で、想像力が弱いというか、思考に深さが無く、アルファベット順に物事を並べたり、仕事の段取りをつけられなかったり、A点からB点に行く途中でアレコレ一緒にやりとげながら事を進めたりする事が出来ない人間の多いことといったら、笑い話にもならないほどなのだ。
簡単な例でいうと、名前がマークデザインされているキーチェーンが700個ほどが混ざって袋に入っているのをアルファベット順に仕分けして飾りつけるのに殆どの店員が2日かけても終われないという事実や、週セール宣伝タグ数百枚を店内の指定の製品に貼り付ける作業にしても、一目タグを読んでの判断が出来ずにいたり、時間のロスばかりのノロノロ作業を当然としていたりで、彼等の脳の大活躍を見る事は稀なのです。私が彼等の脳が大活躍していると感じる時は、人のゴシップをしている時と、自分の不手際の言い訳を考える時でしょうかね。
そう思うと、私が方向音痴であっても仕事を手早く終えることが出来るのは、多分に私は全てを感というものに頼り、信じてやっているからなのかもしれません。(という事はアンタも思考は深くないのでは?との声。その通りだと思いますね。)ですから私にとっては勘違いという事が一番の大敵なのかもしれません。おちょこちょいの私は仕事は速くても、この勘違というものをよくします。(でもまた直ぐに、しなおしてしまうので、目立たないのですね。ズルイか得かは、何とも云えませんが。)
無駄な二重手間をかけているだけのことなのかもしれませんが、仕事を終えるというところが前者とは違うわけだけです。
この方向音痴にしても、遠回りしたり、時間を費やしたりで、勘違いという部分では同等の脳活動だと思うのだが、今後の私の生活行動と日常態度がずっと外れて方向音痴にならない事を密かに願って止まないのが本音といったところ。方向音痴の私の今後はいかに、、、。溜息

軽くお喋り17 -私と言語


中、高、大と数年に渡っての勉強もあまり役立つとは思えぬ様のTHIS IS A PEN.ほどの超初級程度英語理解力で悠々この地に渡った私も在米40年ともなると、(39年連れ添った米人ハズバンドとの日常生活効果もあり)一応の日常英会話にはあまり不都合をきたさなくなった。やっと、という思いではある。
若き日の私は恐れる事を知らない冒険好きな女の子であった。
今振り返ってみて、「よくも、マぁ、無知とは恐ろしい事よ」と漫画絵風に表せば私の頭の上に!印が何個も出る冷や汗ものである。(何故漫画絵に表すのかは細かくそこを聞いて下さいますな。現実性に欠けているという意味においてでしょうかね。)
多分そういった無知無謀さは、若いというか、未熟者、未経験者故に、恐れ知らずの行動が出来たのでしょう。興味心は旺盛で、欧米カブレをしていた事には間違いはないが、決して馬鹿女呼ばわりされる生活はしていないと自負して止まない私の青春時代でした。
しかし、事実は渡米して直ぐに「私の7年間の英語の勉強なんて、役には立たない」という思いばかりであり、落胆に次ぐ、落胆生活をつきつけられた思いにその難関に、さっさと見切りをつけて学業を棄ててしまったのでした。
「勤勉なくして宙ぶらりんの中途半端人間」というレッテルが自分にぺタリと張られてしまった思いを、夫には申し訳ないけれど、成り行き人生一期をひとまず幕引きが寛容とばかりに結婚生活に逃げ込んだ私であります。
たまたま、夫として選べた彼が人間性に富んだ人であったことが、私には多いに幸いしたと幸運の女神に感謝はしていますが。
そして、この年になるまでは自分の生活がHUNBLE – 謙虚であれ、そして自分の人間性向上こそが自分への生きる資格取得であるなどとは長年に渡り考える事を怠った、惰性怠慢生活を送ってしまったという、一抹の後悔が心に沈殿している由縁であり、これが私が英語・日本語ともに半端な知識しか持ち合わせていないという人生に於ける沢山の汚点の中の一つでもあるわけだ。
後に日系企業に就職した事で、私の若き日の不勉強を多いに反省させられたのはここに言うまでも無い。

日本では毎年人気流行語大賞というものがあるらしいですね。
2007年度に選ばれたのは「どんだけ~」や「そんなの関係ネエ」や「ぎざ、かわゆす」とやら。特別賞に輝いたのは宮城県長の「どげんかせねば、ならんばい」とか。
私は流行語というよりも、こういった各地の方言がとても好きだ。
在米40年となった今でも私は北海道弁を普通に話す事ができる。(と、思う)
日本から離れて生活していると、こういうのがその文化の変換と共に流行るという流行語には遅れをとり、その文化にも取り残され、年月が歴史のごとく言語にも進化を遂げていくのだと知らされるわけです。
北から南まで言葉が同一な米カリフォルニア州と程同等大敷地の日本が各種地方でそれぞれの文化と方言をもつというのがとても興味深いものがあると日頃思っている。言語の専門家の意見を聞いたことはありませんが、日本は内戦も多く部族孤立生活文化が発達していたのでこのように狭い内陸においても各地でその土地独特の仲間言葉が発達したのでしょうね。
米国島生活10年(ハワイ州)、西海岸生活15年(カリフォルニア州)そして東海岸生活15年(フロリダ州)に於いての生活言葉の違いというのはあまり大差はない。東海岸南部州では語尾を延ばした南部発音の人達の会話を耳にするけれど、日本での方言とはまったく違ったものだと思われる。
少々興味深いのは、ハワイでは日本語を英語化した方言があります。その昔に日本政府からハワイに移住農民として島に渡った方達がハワイに独特の方言をつくりあげているわけです。
こうみても、日本人というのは心を思いのままに自分風に表現するのが得意な民族といえますね。


先日のマネージャーのお奨め品としてサンフランシスコのチョコレートであるギャラデリー板チョコであった。
この米東海岸ではあまりお馴染みが少ない事もあってかこちらでの知名度がイマイチのようで、こちら育ちの支店長・主任長もこれを「ジェリデル」と呼ぶのが私の耳に不快に響き、「この製品、ギャラデリー社のチョコレートはベルギーのチョコレートには適わないかもしれませんけれど、国産としてはなかなかの美味製品ですよね」と耳打ちした。
でも、日本人の私の発音間違いと思ったものやら、やはり「あ、そのジェリデルね。売れているね。」と支店長の応え。
しかし、休み明けで出勤すると「あ、あのギャラデリーね、所定設置位置にもどしたからね。」と普通に発音をして私に言ってくれたところをみると、どうやら自分達の間違いに気がついたのだろう。ふふふ、、、。