2/17/2007

文句あっか!その1 影武者


いやァ、私達夫婦というのはやはり似た者同士なんですよ。今日つくずくそう思いましたです。

この2007年の晴れの日、夫の再就職先の大学でフォーラムを兼ねた式典がありました。成績優秀苦学生に奨学金の授与式もあり、学生達が模擬店を出したり、航空課&自動車課なので沢山の自動車会社やセスナ飛行機会社などからも出展があり、人出も多く盛況な催しとなりました。
夫がその勤務を請け負う3年もの前からその取り扱いのノウハウをしらない大学側は空港にパークしたままになっていたその貰い受けた教材飛行機は、貰い受けたままの状態で学生がその教材を使用するために空港に出かけて出張クラスになっていたのです。
それを夫が退職先のコマーシャル航空会社での経験をフルに活用して彼が勤めてのこの2年間で法律関係、契約証などを取り揃えてこの度、やっと大学に飛行機を移動設置クラス開校にまでこぎつけたところです。
式典には州教育委員長や学長、各大会社の役員などが正装で参列しています。
と、ここで夫はと云いますと、運動靴に学校関係者文字入りのTシャツにジーン。
役員及びご招待客席にも彼の名は無く、テーブルの用意やら、手配やらをやって動き回っています。
黒の正装にマイクを持って、晴々しくこの式典を取り仕切っているのは夫の上司である航空&自動車部理事長のGであります。
実は、Gが他のキャンパスから航空&自動車部の理事長として配属された時、彼は大慌てでこの飛行機の設置を思い立ちそれを伝に出世街道を登ることを考えたのですけれど、それをどうやったらできるものか考えたところ、これを新しいノウハウを知る人材を採用する事に掻けた訳であります。
は~い、ここで夫の登場とあいなります。よく名の知れたコマーシャル航空会社を退職し、世界中の支店を再建して回って人脈もある彼には適任の仕事となるはず。そして夫はその期待通りに働き、今日の日を迎えたのであります。
大学関係者は夫の力で今日の日を迎えたのを知っておりますので、彼の部下達はGは出世の名売りをする為にあたかもこれが自分の効力として自己の名を学校史に残したいのだと皆が陰口を言い合っています。
当の夫は「自分はもう退職の身でこれ以上の出世も望まないから、Gが私の力を利用したとしても、それはそれでいいではないか」と言います。
今は私の職場同僚ではなく、夫の配下になった友人に2ヶ月ぶりに会った。
「彼は職場同僚皆に好かれているよ。出世を気にしないから上にへつらう事をしらいしね」と夫を称して言ってくれた。
得意顔で仕切っているGの妻が私達のところに挨拶に来た。無論彼女は招待客席に座るのだ。
「この頃雨空が多いのに、今日はなんて式典日和なのでしょう」と彼女。
「ええ、色々な諸手配で一番のオーダーに苦労したのは天候です。何せ私は宗教家ではないので神様に祈りが聞き届けられるかどうかが心配でしたけれど、オーダー通りのが届けられたようですよ。でもちょっと肌寒ですけれど」と夫。
その直後、南キャンパス学長Pが自分の家族を帰したのを機に私も式典には残らない事にした。
多分中国人家族の学長が私の気持ちを思い図って自分の家族をも式典招待席に座らせて出席させる事に少なからず抵抗を感じ取ったものやもしれぬ。

先日私が「しかしね、力の無いGが貴方の仕事を自分の高名力に使うのは感心しないわね」と云うと、「君だって今の職場でマネージャーのシャドー的存在で彼等に力を貸したりしているではないか」と言われました。
あ、そう云えば、そうかも。うん。
きっと夫も大役を成し遂げたという満足感が名勢力感よりも自分を支えているのに違いない。6年前に受けた心臓の大手術後の活動60%以下心臓で成し得た仕事としてはあっぱれと言って上げたい。
え~、何だかA(C夫婦です。(へへ、ずいぶん古いギャグ。エーカッコシーなんて今は誰も使わないですよね)
でもね、これでいいのですよ。
私達は影武者ですから。ね、A(Cで何か文句あっか!デス。(大笑)

2/13/2007

残り物に福


10円玉をにぎりしめて兄と二人近所の駄菓子屋さんに駆けて行った。薄給の教員の父と、入退院を繰り返す病弱な母と、子供2男一女の家計からは幼少当時の私達がおこずかいを貰うという機会は滅多に無かった事だが、どの様な状況でその小銭を手にしたのかは今は思い出せない。
まだテレビなども全く思いだにせぬ昭和の戦後も間もない事であったので、当時の子供達の娯楽と言えば駄菓子屋からビー球やめんこ、そしてクジ菓子を買ったり、紙芝居のおじさんが来ている街角でおじさんのだみ声で聞かされる冒険談やら、童話やらを遠巻きに見学する事であった。
駄菓子屋さんの店先で「当たりクジ」と言われていたくじ引きをする事は何やら運試しの要素がありスリルを味わうようで子供心をワクワクさせた。それはメレンゲを固めたような砂糖菓子をそのクジであてて貰うというもので、束になっているクジ紙から一枚を引き抜き、舌でそれを舐めると蝋で書かれた文字が浮かび上がるというものだった。
その束の殆どが「スカ」で、ハズレを意味し、白い波状になっている固まりの砂糖菓子の一片を貰うことができる。次に「アタリ」が数枚、多分今思うにその菓子箱の大きさからして花形の塊が9個ほどあった、そして「大アタリ」が白い波状の中に4色の花がついていて、4個が箱の下段に収まっていた。
1クジが1円であったので(今の若者達にはその価格感覚も、その安っぽい砂糖菓子が私達には魅力のお菓子であった事も、彼らの想像外である事に違いない)その時の心情を今でも良く思い出すのだが、半分の5円は当時の流行り遊びで色鮮やかな細いビニール製の糸をマカラメのように編みこんで腕輪などをつくるビニール糸を数本買い、残りの半分の5円でクジを5本引ける計算になると私は有頂天であった。
が、息せき切って駆け込んだ店頭にはそのクジ菓子箱が見当たらなかった。
「ちょっと待ってろ。どこか他に置いてあるのかもしれん」と半泣き顔でぼんやり突っ立ている私に兄が声をかけ、その狭い店内をウロウロ捜し求めているところへ「あんた等、何を探しているのさ」と店のおばちゃんが顔を出した。
兄は何か悪い事をしていると思われたかもしれないとの羞恥心からか慌てて「いや、、その、、」と口をパクパクさせただけで、言葉が続かない。
「クジ、、、クジがないね、おばちゃん」と私は思わず小声で兄の言葉にフォローする。
「あァ、クジ菓子ね。今週は問屋さんが休みでね、新しいのがはいらなかったのよ。残り物で良かったら買うかい?もう殆どクジが引かれてあんまり残ってないけどさァ」
「うん、買う!」と兄。「買う、買う!」と私。
おばちゃんが奥の部屋から数ヶ月は埃に塗れながら、棚に並べられていたために日に焼けて色あせた、その厳かなる(私達にとっては宝のような)箱を持ってきた。
本当だ。クジの小束はその殆どの紙がちぎり去られ、歯抜けのような状態で、合間、合間にかろうじて数枚の紙がのこっているにすぎなかった。
「クジ、引かなくてもいいよ。これ5円で箱ごともって行きな」とおばちゃん。
えっ?いいの?本当にいいの?ぜーんぶを5円で。
それには「スカ」ばかりではなくて、「アタリ」とそして、「大当アタリ」も残っているのだ。
わー、凄い、凄い。生まれて初めて下段に入った大当たりの箱1/4もの大きい砂糖菓子を2個も手に入れた。しかも上段のスカの小さいのはたった4つほどで、中段の当たりのも箱半分は残ってるし。母が日頃云っていた『残り物に福』とはこの事なのだ、と幼少心に思ったものであった。
当時の大事件でもあるかのようにその過程をはっきりと覚えているにもかかわらず、その帰宅後に兄と、どの様にその菓子を分配したのか、大輪の花が咲いたようなクドクドとした色合いのその「大アタリ」菓子がどんな味だったのかもまるで記憶には残っていない。

先日いつもの軽い不眠症の時間をもてあましている私の脳裏にふと、あの砂糖菓子の記憶がよみがえってきた。
さて、これは、、うつら、うつらと思うに、今の私の人生に、いままでの私の生き様そのものであるようではないか。
今までの私の人生に沢山の数ある束の中から「スカ」を随分引いて来た。
そして、たまには、たまーにではあるけれど、確かにそれなりに「当たり」も数本引いたように思う。
しかし、「大当たり」はまだ出ていないのではないか。いや、確かにまだ出ていない。
と言うことは、今現在の私に残された年数が短くなってきているにおよび、人生後半期に当たるいままでに未だ引かれずに残っているという事なのだ。
あの駄菓子の残り少なくなったクジのように、或る日私が「大アタリ」が出ますようにと祈りながらクジを引こうとした時、神様が「いいよ。人生の運クジがもう残りも少なくたってきたことでもあるし、ここらでもうみんなもって行きなさい」とおっしゃって古いけれどもその人生という私の箱を全部持たせてくれるやもしれない。そして、その箱を覗くと、「大アタリ」が光輝いて見えているに違いない。「大アタリ」は何本あるのかしら。
多分「スカ」は殆どこの年までに引き抜いてきてしまって、あとは「アタリ」と「大アタリ」が残っているだけなのかもしれない。
私の人生「大当たり」とはどんなものなのだろう。考えると何だか楽しみが残されている気分になってきた。

ならば、今までの生涯を「スカ」を引き続けても残されている「大アタリ」を思えば、何やら楽しいではないか。まだ人生を諦める事はしないでいよう。スカとそこそこの「アタリ」の人生でも、まだ「大アタリ」が何かの拍子に手に転げてくるやもしれない。
大アタリがかたまってどーんと私の所にやってくるやもしれない。
あの駄菓子屋のクジのようにだ。
そうしよう。そう思えばこのままの人生でも悪くは無い。
人生の大アタリを貰ったら、駄菓子屋のおばちゃんにありがとうと大声でいった時の幼児の私にもどり、「わー、凄い、凄い」と大当たりの箱を手に天国に駆けていくのかもしれない。
『残り物に福』と亡き母がいつも云っていた通りに。

2/03/2007

笑う理由、笑えぬ事情


N子の顔が横を向いてちょっとだけ眉をひそめたが、直ぐに正面を満面の笑顔に変えて「こんにちは。ありがとうございます。また今日も1日良い日でありますように」と一通りの挨拶で客に買い物袋を渡した。
回りの人達は彼女が何故眉をひそめるかを理解できないだろうし、その横顔を見る人もいないので、彼女はいつもと同じ笑顔の『ハッピー・ゴー・レディ』としか写っていないはずである。
彼女がこのような一瞬の曇り顔を見せるのは陽気な常連客が「ハ~ィ、ビュティフル!」とか、「ヘイ、ヤングキッド」とかで彼女の呼びつける事にあるのだ。
彼女は同僚(上司)が彼女を「スィーティー」だの「プリティキティ」だのと呼ぶのにも大抵抗を感じている。
『いったいこの人達ときたら、私よりずっと若いということを知らずにいるのだけれど、親しさを示しているつもりかもしれないその行為が何とも女性軽視的だとは思わないのかしら』と彼女は心の中で独り毒ずいたりするのである。
30代か、その頃だと、それが何とも感じなかっただろうこれらの愛称も、50代ともなると、しかももうすぐ60代が目の前である今、このような呼び名では何とも子供騙し言葉としか響かなくなったとしても誰にとがめられるものでも無いのではないかと思ったりするのである。
「日本人女性は美しいなァ。本当に憧れるよ。君と結婚している旦那が羨ましいよ」などとちゃかし半分の若い輩がねちねちと目を光らせて語りかけてくると、またしても心の中で『ヶッ。ご冗談を。中国と日本を地図で探せないような頭脳で判断する美女になど私は成りたくない!』と叫ぶのである。
勤め始めの当初はまるで違う世界の中にいるような、それまでは自分が客側だったのが初めて雑貨薬局の接客側に立ったもの珍しさもあり、「この世界ではこういうものなのか」と変に感心する事が多かったものである。
しかし、このアメリカ東海岸一帯はやはり、西海岸側とくらべてその生活は多分に保守的であり、各種の偏見差別も風習的に残っていて、時には酷く文化の遅れた世界にタイムスリップした錯覚を起こす時すらあるのだ。
「僕が切腹を覚悟なら君と付き合ってもらえるのか」と聞いた若者がいた。
『切腹?何故私が君と付き合うの?なんじゃいね、これは、、』あははは、、とその時N子は笑ってしまって当の若者を少なからず傷つけた事を知らぬふりをしてきた事にも、そのバカバカしい無知な思考にも腹が立ってならなかった。
笑顔を艶目使いと勘違いする若者達よ、日常の生活の笑顔は何も特別な事ではない事を解って欲しい。
嘲笑かふざけ笑いか、艶目使い笑いか、照れ隠し笑いの他にも色々な笑いが、笑みがある事を忘れてはいませんかね。
多分こんな事を特別取り上げて考えるN子は偏屈人間なのだろう。きっとそうだ。
しかしながら、今日も彼女は来客の全てに嘲笑でもなく、ふざけ笑いでも無く、艶目でも照れ隠しでも無い、彼女特有の笑顔を振りまくのを止めることはできないでいるのである。