12/08/2006

軽くお喋り11 不思議モニター


あのですね、この2ヶ月程少しばかり嬉しい小さな偶然の連続にちょっと不思議な思いをしています。
なんだか私の言葉が盗聴でもされているのかしらと疑ったりもします。
誰に話したところで「唯の偶然を大袈裟に話す貴女」でかたずけられるのがちょっぴり悲しいし、ロマンが無いじゃありませんか、とこうして書いて残す事にした次第です。

私がドラッグストアでショッピングのモニター対象になっているのを確信したのは私の買い物品をオフィスでチェックし、それにそってセールの資料としているのを知ったのですが、今月のチェーン社紙に「我が社のコンスーマーは50代以上の女性の販売力が第一位」との記事からも私をモニターの対象にした理由が伺えました。
それは、それとして、今は私個人的に「あら、これは?」という『不思議モニター』に戸惑っています。
というのはですが、接客の際「この品、いいですよねェ。私もセールのうちに買おうと思っているんですよ」とのセールトークをすると、何故か翌日には私のステーションにその品が置かれているという事態が続けて発生しているのです。
別に大声で話しているわけでも無いし、長い会話でも無いのです。何せ勤務先のモットーでは3人以上の客を並ばせてはいけない、手早くしかも丁重になのですので。
ギャラデリーチョコレートがセールの時も「これお得ですよね。私の好きなチョコレートです。サンフランシスコ在住の頃はギャラデリー社工場に買いに行きましたですよ」と話したら、ええ、また翌日に一袋脇に置かれており、きっとセールなので誰か他の店員が購入したのだろうと思ってそのまま置いておいたら、その翌日には私がいつも水ボトルを置いている所にもう一袋置いてありました。
この品を売ってくださいという店の作戦の一端なのかしら、だったらそう言葉で指示すればいいのに。
でも、こういう品物ばかりでもなく先日にはスパニッシュスピーキングのお客様を手まね足真似でお世話しているのを見ていた他のスパニッシュスピーキングの方が優しい言葉を掛けてくださって「フェリースナビダは貴女の様な人に言う言葉としてふさわしい」と云って下さったのを受けて「あ、私その歌を知っていますよ」とその場にいた2,3人の方達と一フレーズを小声ながら合唱したのでした。
するとどうでしょう、その後私がちょっと早い休息から戻ると私のステーションにクリスマスカード“フェリスナビダ”とだけ書かれているものが置かれていたのです。
このような小さな出来事が毎日重なると「あれっ、何かな~。誰だろう?」と考えてしまいます。
昨年は視察団からあまり良い点数が取れなかった支店でしたが、今年は高得点だったと聞くに付け、これはお店自体が整頓されて綺麗になって販売力も伸び、嬉しくなって私に更なる協力を求めているのか知らンなどと夢見50代オバサンの勝手解釈で落ち着く事にしました。
どうでしょうね。これで。

11/11/2006

軽くお喋り10 映画のお話

古い映画を上演するのをメインにしているTV番組で「バラバス」を観ました。
この映画を40年以上も前に故郷の隣町に観に出かけたことがあります。
私が幼少時代の大半を暮したその小さな田舎の炭鉱町には当時映画館というのが数軒しか無かったし、ましてや「総天然色スペクタルロードショー」なるのを唱っての大宣伝を掲げるような映画が上演する事もなかったわけです。
その頃のこういったロードショーと云われる「風と共に去りぬ」「銃よさらば」「奇跡の人」「ヘラクレス」「ベンハー」などの名画はこの砂川会館までバスで行かねば見る事ができなかったのです。
テレビがそろそろ各家庭に出回り始めの頃であり、そんな田舎町でも僅かながらも世間の情報が流れるに従い、若者達は都会の生活に憧れたり、世界へも目を向けて音楽や文化に遅れまいとあくせくしていた青年達が溢れていたように思われます。
かく云う私もご多分に漏れずそんな一人であり、いつか世界を、自分の周りの生活以外の文化や芸術を、身をもって体験してみたいという想いに燃えていたものでありました。
今なら世界中の情報がインターネットで得られるし、疑似体験をする事も可能だし、あらゆる私設やサービス機関もあるのですけれど。
もし、当時の私が今と同じくらいの情報を故郷にいるままして入手可能だとしたら、果たして今の在米40年目という私がいなかったのかもしれないですよ。

2006年作の「オーメン」を息子のレンタルで観ました。
一応大抵の話題作は観てきていますが私個人としてはあまりホーラー映画は好みではありません。滅多に内容のある興味深いストーリーの作品に会わないので。
この映画もやはり、1976のオリジナルのが未だに私の頭の中には強く残っていて、新作は映画自体のシーンスケールもこじんまりしていて私の思いの中では不作の部でしたが、夫は昔そのオリジナルを一緒に観たのにもかかわらず、内容をすっかり忘れてしまっていて新作が話としては面白かったのだそうですよ。
オリジナルのグレゴリーぺックやリーリミックに比っする俳優・女優を誂えるのは大変な事にちがいないですから、新作にミァファローが出ていてもちょっと役者不足といった感じもぬぐいきれないものでした。
この年になるまでには何作かの映画のオリジナルとリメークを観ています。
そのどの映画もやはりオリジナルをひいきしてしまうのはやはり私の頭の中も古くそのままの状態か、停滞というより減退頭脳がリメークの向上進歩を認められなくなって来ているからもしれません。
孫曰く「グランマジェネレーションの古い考え」なのでしょう。なるほど。
でもですよ、オリジナル内容をすっかり忘れてしまった忘却の人、夫は「新しい感覚でまた事を考えるグランパ」と云われるのが、私にはちょっと腑に落ちませんですよ。

10/28/2006

或る日の職場で その1 この3人の場合

Kの場合

やっとパートトレーニングが終わって、独りでカウンターを任されるようになった。何たって大した仕事じゃないさ。
前に務めていた映画館のカウンターの仕事に比べりゃ、もっと作業も技術を求められるかもしれないし、特にカメラ部の配属になった事は僕にとってはラッキーに違いない。
トレーニングの最初はオリエンタルの女の人、おっと、女の人といっても後から孫が居るオバサンだと聞いてちょっと驚いたけれど、彼女が接客のノウハウを教えてくれた。
といっても、僕の知らない事なんて特に何にも無かったのだけれど、神妙に一応は聞いておいたよ。
トレーニングの合間に、「何か質問は無いか」と聞かれたから、「給料日は何時?」と聞いたよ。何せ、それが一番肝心な事さ。
お昼時間になって僕が一セントも持ち合わせてないことに気がついたのか、オバサン僕に飲み物とスナック奢ってくれるって言ったので、奢ってもらう事にした。
奢りもらいついでに明日のスナック分のお金も借りちゃおう。
5ドル位なら出してくれても平気そうだし。
この秋の一学期から大学でコンピューター整備技術科に入学希望だと支店長にはいってあるのだけれど、どうかな、このパートをしながらの通学に無理があるかもしれないな。この安給料では中古の車でさえ買うのは難しそうだ。
しかし、22才で今だにママの車の送り迎えを当てにしては何も出来ないしなァ。
暫くはこの職場で生活の成り行きを見るしか手はないのだろうな。


Cの場合

この職場がこの俺をもう少し待遇してくれても良さそうなものに、と時々大声で怒鳴りたい気分だよ。実際時々は怒鳴り散らしてやるのさ。
大卒の若いのが支社直下に雇われて主任として配属されて来るのが、何とも腹立たしい。この俺はこの支店にもう8年以上も勤務して全てを任されていて、それらの若造を主任トレーニングしてやっているのに、アシスタント止まりなんて、不合理ではないか。人一倍に仕事はこなしている自信はあるさ。
この俺が高校中退だという事は秘密にしているから他の皆が知らない事なのだろうが、どうやら主任試験を受けさせてもらえない理由はそこにあるらしい。
以前の同僚の主任Nだって高校はGEDで卒業したはずだ。
今の俺の時間をGEDを採る時間に使うのは面倒って考えてるのがネックになってるのは承知だけれど、今更勉強なんて御免だね。
俺はこの職場では一番のモテモテ男なのさ。
どの女の子も俺の仕事振りを見て惚れるのは無理も無いことだと思っていたけれど、一昨年は思わず災難にあったよなァ。
俺に夢中になった浮気好き主任Kの旦那が銃をもって乗り込んできたのには驚いたね。
その事件で2人の主任が他店に廻されたけれど、運良くこの俺は主任ではなくてアシスタントだから他店には移動されないで済んだ。
主任に成らなくても良い利点は移動を強要されないという事なんだよな。
しかし、この店のストックは全部俺様がコントロールしているようなものだ。
感謝されこそすれ、あれこれ不備を問われるのは心外というものさ。
いったい支店長はどういうつもりなのかな。
でもいいさ。今度の新任の主任長は女性で俺に充分気があるから、最近は二人で組んで支店長のフロアプランなんて押しのけるパワーだってあるし。
それにしても支店長のお気に入りのあのオリエンタルのオバサンには要注意だ。


Rの場合

この職場にはこれ以上の長居は無用だ。
この新天地に大いなる将来の夢をもってやって来て、自国の高度教育に更なる技術を身につけて悠々生活を送るはずだったのが、帰る故郷は戦争で崩壊してしまうし、9・11以来私がイラン人であるという事がテロ人間であるかのように恐れられ、迫害視されるしで、自分の人生がこのように天と地の狭間を翻弄せねばならないなどとはこの新天地に足を踏み入れた時の私には考えにも及ばなかった事なのだ。
テロリストが一応に航空学校やそれらの技術知識を得る事でこの周辺に潜み住む事から、私の専門である航空エンジニアリングの資格は暫く隠し持つ羽目となり、食べる為に已む無くこのドラッグストアの酒種販売部主任に身を預けた事になる。
私ももうそう若くは無い、今自分の路の見直しをしなければ一生酒屋の雇われオヤジで甘んじてしまうのは何とも云いがたい。
幸い常客の一人に航空関係の人がいて、世間話をしているうちに彼がこの職場の接客員の夫であり、彼女は私とは腹を割って話し合える人間である事が解った。
それにしかも彼は今は私が数年前にこの国の航空機械資格を得た大学の航空部責任者であるということで、大学に雇用してくれる話が持ち上がったのだ。
私はこの一生のチャンスを逃すわけにはいかない。
まだまだ学びたい知識も沢山ある。食べる為にだけ生きるのではなくて、自分と自分の生活を向上させていける暮らしに入れるかもしれない。

9/29/2006

スピリチュアルワールド その3


今日の不思議

私は作家佐藤愛子女史のエッセイが、そしてその彼女の生き様を書いた文を読むのが好きです。
その頑張りで、時にはがむしゃらと思える気丈さや、周囲に気配りをしながらも自分の立場を知り、お愛想を言いつつ生活するでもない、毅然としたところが私には何とも小気味良い心情にさせてくれる女性だと羨ましくも尊敬の念を寄せるところでもあります。
その女史の何作かのエッセイ集の中に、北海道の浦和に購入した家でのエピソードが書かれており、しばしばそこでの土地の人間との交流生活と、それを含む人間業と思われぬ不思議体験を語っておられます。
女史がその事で専門家に見てもらったとありましたが、数年前にそれを読んだ時は知らなかったのですが、それが今を忙しく活動なさっているスピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏であり、氏に相談して以来長年懇意にしている事をつい最近、江原氏の出版本にて知りました。
ふ~む、そうなんですね。
あの気丈な、全てに物怖じもしないと思われた女史が自分のインナーカウンセリングを彼女の書く世界では『若造』の江原氏が『助けの師』であるという事は何とも不思議なのがスピリチュアルワールドと云う未開の世界であるわけです。

以前にもこの場で書いたのですが、私の母はいわゆる霊感の強い女性だったらしく、何度も邪念と戦う生き様に生と死の間を翻弄したといいます。
その子の私が母と同じにスピリチュアルワールド通じているかというと、これがまったくそうでは無いと云うのは、これまた不思議なところと言えましょう。
スピリチュアルセンスというものが代々遺伝しているケースを数多く聞いておりましたから、ちょっとはそれらしいかと期待してはみたのですが、その世界の事を知れば知るほど、私のセンスはそちらの方では無いような気がしております。
私は色々な意味に於いて、父似でありました。良くも、悪くも。
そういう事、スピリチュアルワールドの事ですけれど、に興味があり、学んでみたいと思ったくらいですから、私は大して怖がりではありません。
ホーラー映画を観てもそのストーリーや人物の心理背景分析の方に気が行ってしまいます。
幽霊やお化けなど見た事はありません。テレポートやテレパシーなんてのにも縁がありません。
読心術は経験や体験を通しての大いなる勘違いの元には日常茶飯事ではありますけれど、、。
そして、そのスピリチュアルワードには何のタレントも無い私が、(こういう世界に通ずる人達の行動や感性を私は一般の人間には表す事の出来ない一種のタレントだと信じているのですが)最近、感覚的にふと無いものを感じたり、ちょっと体調に不快感を覚えたりするのは、もしかして脳細胞の壊れが生じてきたものやら、はたまた、私の細胞一部イマジネーションの部門が変形してきているものかと考えるところなのです。
「お~、怖いッ!貴女もとうとう老人アルツハイマー症の遺伝子が現れて来たのですか。お父さんのDNAですよね。とにかく、お大事に、、、」と、他人は云うやもしれません。(何を大事にせねばならないのかは、教えてくれないのですけれどね)
夜勤をしての4年間は、夜独りでドラッグストアにいる事には何の不都合があるでもなく、むしろ夜間は心落ち着くものがありました。
海抜の低いこの州はちょっとの雨天で電気が混線したり、配線に支障をきたすようで、いつも私がそこを通ると天井の蛍光電気がチカチカ点滅をし、それを2,3回すると消えてしまうのに気がつきました。
翌日にはまた付いているので、電球を取り替えるまでもありません。
ある日その事を仲間の青年に見せようと思い「ちょっと上を見ていて御覧なさい。私が通った後に電気がどうなるか、ちょっとしたマジックね。」
一度通り過ぎてチカチカ点滅しているのを「もう一度通ると消えるの」とウィンクしてみせたのです。
ジャマイカ生まれでボストン育ちの黒人の彼はとても迷信家でもあり、私が何やら不吉なマジックを起こしたと思ったらしく、震え上がってしまったのでした。
しかし、夜間勤務は緊急病院からの帰宅前に寄ったという患者や家族、急病の子供の薬を誂えに来た親御さんなど、思わず窮地に立たされた人々が来店するにもかかわらず、私にはその場の空気が愛情に満ちているとさえ感じさせられたものでした。
そんな夜勤の時とは反対に訳も無く精神的に苛立っている人間や、悲しく追いやられ一生懸命に健康保持を保とうとしているご老人達が来客として多い日中勤務なのです。
そのうち私の体調も何やら風邪の症状を長引かせているような、体全体がだるくてしょうがないといった感じの日が多くなり、レジに立っていない時はふと私の視界隅に人が立っているような感じにとらわれては「おやっ、お客様かしら」と探す回数が増えてきたようでした。
そして先週の事、朝から私の頭痛がひどく手持ちの頭痛薬を取り、その日配線工事で天井タイルを外している工事員の手元を何とは無くぼんやり眺めていた私はそのタイル内の真っ暗な天井から何者かが覗いているような感覚が頭を横切り、どっと疲れが体の中に入った思いがしたのでした。
私の心が疲れているのかもしれない。
ゆっくりとした気持ちをもって、明るく生きると言うことをしていないかもしれない。
そういう思いと共に、何故か母の事が思い浮かばれてならないのでした。
そうです9月です。母の誕生日でした。
事情あって一緒に暮した年数は少ない家族だったせいなものか、母は生前私が母の誕生日をいつもしっかりと心に刻んでいたなどとは知らなかったに違いありません。
母他界後20数年の今でも私には母の誕生日を心の中ではいつも祝っていたのですが。
勤務から帰宅後、メールチェックにとPCの前に座ると家の電源が2度ほど点滅を繰り返し、これは近所のメインストリートで信号機の付け替え工事をやっている配線不調によるものだと推測されるのでした。
夜になると、まだ9時前だというのに疲れが最高潮に達したようでこの日ばかりは家族の誰よりも早くベットに就き、倒れるように寝入ってしまいました。

さて、いつもながら、本題に入る前のあれやこれやの前置きがとても長くなってしまいましたが、これからが今日の不思議のメインのお話なのです。
勤務休みは子供達が登校後、家事諸事をしながら音楽を楽しんだり、TV番組に目を通したりして過ごすのです。
今日は母の好きだったクラシック音楽を聞くことに決めていたので、優しい郷のお友達が送って下さったフジコ・へミングのオーディオCDをPCに入れ込み曲をスピーカーに流す事にしたのです。
曲が始まった頃、日を同じくして勤務休みの息子が部屋から顔を出しテレビの映画チャンネルで学園オカルト映画が始まったので一緒に観ようといいます。
CDの音楽は低くそのままに流しておいて居間に移動し、息子と映画を観だしたのですが、映画半ばで息子も私も睡魔に襲われてしまいました。
それだけそのテレビ映画はつまらない内容だったとも言えます。
映画が終了する前に息子は部屋に退散、私も映画を観続ける気も薄れ、コーヒーを作り、PCの前に座りなおしたのでした。
CDの音楽はもう既に終了していて、ピアノ音はありません。画面が電源節約モードで黒い画面なのをマウスを動かしてメディアの画面に家族写真やらが現れると、同時に音が聞こえ出したのです。
女性の声のように「Ummm~~mm~~、Raa~~Ra~~、Humm~~mm~~」
あれっ、音楽かしら?何だろう、唄のようだ。
私は耳を傾け、スピーカーの音量を上げます。しかし、音量は変わりません。
何度も音量スイッチを上げたり、下げたり調整してみてもその「ウムム~~、ラララ~~、フムム~~」は同じ調子なのです。
そして数分後、もしかしてCDの最後にピアノ以外の唄でも録音されているのかもしれないと思った私はメディアのスイッチをCDに合わせてみたところ、その歌声は掻き消え優しいフジコへミングのピアノ曲が奏でられます。
CDの音楽を全部聴き終え、部分々々をまた再生してみたり、音楽終了後をそのままにしてみましたが、そのCDのどの部分にも2度と同じあの歌声らしきものは再び聞こえてくる事はありませんでした。
あの時確かに数分私は歌声(らしきもの)を聞いたのですが、、、。
あれは何だったのでしょう。
やはり、母が音楽を聴いてつい口ずさんだ歌声だったのでしょうか。
以前に前頭に記した江原氏がフジコへミングさんにはスピリチャルに通じていらっしゃると云っているのを思い出しました。
私もいつか私を思って誰かが優しいフジコへミングさんの音楽をかけて下さったら、それに聞き惚れて一緒に唄いだしたく成る時がくるのでしょうか。
でも、やはり駄目か。
私は母の様に霊界一跳びのタレントは無いのですもの。

9/10/2006

悲しい老人達


悲しい老人1

私の家から車で10分程の処に、かなり大きな敷地のコミュニティ・タウンのセンチュアリー・ヴィレッジがあります。
ここはいわゆる55才以上の方達が入居特権を持つシニアシチズンタウンです。
その敷地内には医療機関やエンタテーメントホール、社交センターがあり、管理委員会がプログラムの色々な催し物や、勉強会、趣味倶楽部等を企画運営しており、ピンクのトローリーバスや車椅子で乗車出切る医療バスが定期的にマーケットやモール、市役所、政府機関への交通手段も整っていて、至れりつくせりのサービスもあるようです。
どちらかといえば小金を持ち、定年退職後には蓄えや政府補助退職金などで旅行や趣味の事をしたり出切るといった中堅以上のシニアコミュニティなのです。
このシニアタウンから車で15分の範囲の大通りには私が現在勤めるドラッグストアのチェーン店4軒程があります。
当然ヴィレッジ隣にある薬局が一番のシニアご用達店であり、何時の時も大勢の投薬待ちのシニアとその家族が列をなしています。
しかし、あまりにも沢山のシニアがそのドラッグストアに集中する為、色々なトラブルも発生しているらしく、シニア客自体がその店を避けて周辺のドラッグストアに移動来店するようになりました。
日中勤務となって接客レジにいると、これ等の70代、80代と思われるシニア客には若い世代とは違った性格パターンがある事に気がつきました。
殆どの方が無表情か、又は生活に疲れ、怒りを感じて憤懣やるかたない表情をしているかのどちらかなのです。
笑顔や優しいユトリある表情のシニアには滅多にお目にかかれない毎日といったところなのです。

私個人の接客観としては、横柄な態度の10代、20代の若者には、その欠陥未熟性格態度を否定する態度を表現しますが、いかにそれが自分勝手な不道理や不満を並べていようともシニアの方達には最後まで笑顔対応でいようと心に決めています。
その理由はヤングはこの先人間としての責任を社会に負う学習が必要なので、毎日の対人生活の中ではそれぞれの役目としてのバランスを知る必要があると思うからなのです。
しかし、シニアは残された余生をいかに自分という人間がこの世にいた事を社会と自分に証明しておくのかがその潜在的行動としての表れであるのだと私は思うのです。
先日の例でお話しますと-
「スポンジはどこだ!この見せは薬局のくせに、ゴチャゴチャ品物が多くて、肝心なものが無いではないか。」
「7Cのサインがあるところにスポンジがあります。」
しばらくしてレジに戻ってきて、
「どこにもなかったぞ。わざわざ奥まで歩かせておいて、なかったぞ。スポンジだ、スポンジ。バス(風呂)に使うやつ。無いのなら歩かせるな!」
「ございませんでした?少々お待ちください。係りにここに来させ、私自身がその品をお持ち致します」
バス・スポンジと書かれた柄付スポンジを持参して見せます。
「なんだ!コレじゃない。スポンジだ。もういいっ!変な物を持って来るな。スポンジだというのが解らないのか。もういいっ!!帰る!!」
あまりの剣幕に支店長がやって来て、そのシニアに言う。
「お客様、スポンジは7Cに数多く置いてあります。もしそれがお客様の必要なスポンジでなければ、どういったものかお聞きくだされば他にもございます。」
「スポンジといえば、スポンジではないか。何という店なのだ。無いのに有る様な口調で客に探させるとは何だ。いったい、この店には雑貨が多すぎる。肝心な物はなにも見つからん!」
そこで、まだ笑顔の私が「申しわけありません。この次にご来店の時にはご要望の品が見つかると宜しいですね」と言ったところ、支店長が私の気持ちを思ってか、それとも彼自身の運営をコケにされたと感じてか、みるみる赤顔になって言い放ったのです。
「スポンジはスポンジですが、この店員が探しきれないというのなら貴方の欲しいスポンジは多分ここにはないでしょう。この店では大勢の方達がご要望のスポンジは各種取り揃えてありますから私は全品を肝心な物だと思っています」

怒りに怒ったままのそのシニアが帰った後も「アアいう客は、、、」との話が皆の内でなされのでした。
しかし、あのシニアはあのように何にでも文句を言いたかっただけだったと私は思うのです。怒りを怒りで応対すると、その怒りは人生全体の憤懣と悲しみに変わっていくでしょう。
シニアはもう充分悲しいのです。その憤懣やるかたないのです。
これからも、せめて私はこういう方達にはこれ以上の悲しみの余生を持って人生を終わらせて欲しくないと考える一人でありたいと思っています。


悲しい老人2

「年を取ると、過去の話ばかりするようになるって、本当だね」と孫に言われてしまった。
「人生というものの尺度でね、自分がその測りの地点だと、長い方を取り上げるのは普通の事なのだよ。たった9年目のデビッドにはこの先の人生年月が何倍もあって、それに向かって歩いているけれど、グランマにはデビッドの歩いている路は、ず~と遠くに過ぎていて、デビッドにその先にどんな事が待ち受けているのかがね、大体の見当がつき易くなっているからね、それでその事をちょっぴり先に教えてやりたくなってしまうのだよ。そういう話の状態を過去体験談というんだけれどね。」と私。
「でもね、B君のグランパは全然過去の話をしないんだって。年を取ってるのにだよ。過去の事を忘れてしまったらしい。B君のお母さんはグランパにあまり過去の事聞くのは可哀想だと云ってるんだって。時々腕にある刺青の番号を見ながら泣いてるんだって。」
嗚呼、そういう事だったのだ。
B君のグランパは過去の事を忘れてしまったのではなくて、忘れようとしているのだ。
あの、忌々しくもおぞましい収容所での地獄の生活を。
私の住むフロリダ州ブロワード地区には沢山のユダヤ人の移住者がおり、悲惨な戦争を潜り抜け、やっとの思いでこの新天地に平和を求めて住み着いた人々が、大勢いるのです。
「その人、その人で話す事には、『時』というものがあるんだよ。学校でクラスの勉強中には決して勝手にお話をしてはいけないのと同じでね、何事にも時と場合や事情というものが人にはあるという事を覚えておいて。同時にね、人に言いたくない事を話させたり、その逆に話さなければならない事を押し黙るように要請したりするのは心と精神の自由を奪う犯罪でもあるの。解る?」と顔を伺うと、当のデイビッド、「うん、何となく。とにかく、おしゃべりはいけないよね。」
未だ幼い彼に老人の悲しみを知るのは『時』が必要なようだ。

9/06/2006

軽くお喋り9

又か。どうしてこうなるの。

え~、誤解ですってば。ゴ・カ・イ・ですッ!
どうして、こうなるかなァ。
先日、久しぶりに店内でハロウィンの今年のデスプレイをブログに載せようと思って、カメラで昨年と似たようなものながら、写真をとったのです。
と、今朝、本社支部窃盗及び盗難防止調査員が来店、私のところにやって来て、「始めまして、Nさん。(私のネームタグを見ての事です)私は日本の横田に1977年の一年間過ごしたのですよ。お会いできて嬉しいですよ。どうですか、こちらの仕事は。」と世間話をなさったのです。
「私は北海道の生まれですけれど、東京で一年間学生生活をしました」「大学はソフィアでしたか?」「いえ、私はオベリンです」「あァ、オベリンね」ってな、会話でした。
その時は私はその私と同年輩らしい白髪男性を、本社支社長だと思っていたのですが、ランチタイムで他のレジへ行くと、皆がものものしい様子で話しています。
「何故、ハロウィンキャンデーの在庫の数字が合わないと、調査員が入ったのだろう。事実、数箱の荷が無くなっているらしい。店内ビデオと書類を全部押収して調べるらしいよ。」
え~。何でまた、こうなるわけ。
以前私が夜間のアラームベルが壊れているのを指摘した際にも、その事で調査員が現れ、ドア側に置かれているタバコの盗難が発覚し、店員に解雇人が出たのでした。
その時の調査員は女性で、朝の2時半に来店した事と、私とやはり世間話をしたのが、私と知り合いであったかのような印象を受けた人がいたようでした。
その時も「どうして調査員が来たのだろう。タバコが盗まれる可能性が高いと言い出したのは貴女ですよね」と云われたのでした。
今回私がハロウィンキャンデーの棚の写真を撮ったのと、その調査員と親しげに話したのとは、何の関連もないのですが、何だかヘンな具合なのです。
「何故調査員が貴女と握手しに行ったのかしら」なんて、云われても、さァ、多分私が来店直後に「ハロー、よくいらっしゃいました。」と声を掛けたからなのでしょう。
普通の挨拶をしたまでのことですけれどね。
そういえば、昨日、レジの仕事ではなくて、適当に整理整頓をやってみて欲しいといわれたので、たまたまデンタルグッズの棚が在庫品を棚の奥に詰まれて忘れられているのを全部引っ張り出して、並べて価格比較等を試みてみたのでした。
すると、どうでしょう。今日一日は支店長が主任長に其処を集中して価格表示と在庫整理、帳簿合わせを命じたではありませんか。
違いますってば。
私は内密侵入調査員じゃありませんって。
たまたま、体調がよくなかったり、私生活にちょっと気が滅入る事があったりで、色々考え事をしていただけで、独りでブレークルームにいて書き物や、電話をしていたのが怪しいと云われても、困ります。
支店長も私の行動に注目して他の人を牽制したり、動かすのは、止めて欲しいですよ。
しかし、今のままの帳簿合わせは、それにまるで関与していないレジの私の目にさえ、ちょっとズサンだと思えてならないんですよね。
まァ、パートの私ゆえ、いえ、お店がそれでいいのなら、私にはどうでもいいのですけれど。
店員達があらぬ疑いを掛けられては迷惑と皆びくびくしている中、レジ接客の私が笑って会話をしているのを見て、主任の一人が支店長に言うのが聞こえました。
「彼女は今日は特別元気だね。悪を摘発するのは嬉しいのだろうね」
ですからですね~、誤解ですって。
何度も勘違いされては本当に迷惑なのですって。
私は調査員の一員ではアリマセンッ!
う~ん、でもこれは、別に声を大にして訂正しなくとも、いい事なのかしら。
力んで訂正している自分がこれまた、何だかヘンですものね。
どうなのでしょうね、皆さん。

9/01/2006

軽くお喋り8


運転免許証

今保持している運転免許証が1994年発行のもので12年間も私の人としての証明をしてくれていたわけで、この11月までには更新するようにとの連絡で、今朝指示通りのネット更新をしました。
驚きましたですよ。今や出かけること無しで、ネットで、ものの3分で「更新されました。7日以内に新しい運転免許証が郵送されます」なのですから。
ここフロリダ州のマイアミ近辺は違法運転者や荒くれ運転者が多いのです。
「郷に入らずんば、郷に従え」と言うのはアジア人の感覚であるらしく、「郷に入らずんば、新郷に改め」というのがここの土地柄のせいやら、ある地区などでは英語が通じない世界なのです。
数年前のある時には、方向音痴の私の運転で夫が検査入院中の心臓センターに面会に行くのに迷った私が給油所で方向を訪ねた経験があります。
このスパニッシュ・スピーキングの世界に入り込んでしまっては英語が通じず、人の良いおじさんから手まねでやっと最寄の大道りの方角を教えてもらった時には「この地区に迷って入ってしまっては視覚が利かない夜ならば、自分の感覚も当てにならないだろうから、物を探し当てるのは至難の事だろうなァ」と変に感心をしてしまった私でした。
この地区に限らずマイアミ周辺というのは南米各国の道路法規制をそのまま行使しているのか、それとも自分達のルール無きルールでが一般運転方として州法の上をまかり通っていたりの、ちょっと怖い交通事情なのです。
話を運転免許証更新に戻しますが、弱視の私は少なからず、目の検査は今回は眼鏡をかけてしようか、それともコンタクトのモノサイトでも良いだろうか、、、と心配していたのでした。
強度の近眼と乱視でコンタクトを使用してもう40年以上、しかもその間に何度かの内膜症をも患い、寄る年には老眼弱視を加えての事でもあり、眼科ドクターの進めで効き目の右は近視用&そうでない左目は読書や書類筆記用とそれぞれの眼がモノワークコンタクトレンズなのです。
レーザー眼矯正手術が高度技術化されてきた昨今は1~2時間で弱視を矯正できるのだそうで、もし、今回の運転免許更新テストでひっかかったとしたら、すぐさまこの手術を受けねばなるまい、、と心密かにプランしていた私でした。
ところが、何と、あっけないこと。
この12年間の間にスピード違反で一度チケットをもらい、一度この敷地前の交差点右折で衝突事故にあった以外では大事に遭遇していないのが幸いしてか優秀運転者のお仲間入りとして今回のあっけない免許証更新許可らしいのです。
公共交通が日本の様に発達しているわけではないこちらの事情では、運転免許証が無ければ毎日の生活を平常にオペレーションは不可に近いものなのです。
これで、一安心。
しかし、今ひとつ問題が、、、。
来月15才になる孫娘が仮免許をとって、学校の運転教習クラスに入るそうな。
「来年から私も車運転者だから、グランマご苦労様。」
お~、今の私にはこの彼女の言葉は何とも優しくも、恐ろしい響きなのであります。

8/19/2006

軽くお喋り7

明日天気にな~れ

あれは確か私が中学生の頃だったと思う。
友達と二人連れ立って当時「総天然色大パノラマスペタクルロードショー」を謳っての映画「風と共に去りぬ」を隣町の映画館まで観に出かけた。
当時は上演半ばに休憩が入る長編放映というのは珍しい企画でもあった。
ヴィヴィアン・リー演ずる強いヒロインの生き方に少女の私は陶酔し、その原本がクラーク・ゲーブルがレッド・バトラーを演ずる為に書かれたとの想いを念に気分は益々高揚し、映画を見終えた大興奮冷めやらぬ思いを抱いて館を出た時はもう夕刻であった。
朝から垂れ込めていた雨雲が空一面に広がり、館からバス停までの路を暗くしていた。
外出には制服であるのが当時の常であったから、私も友人も制服の上に軽い黒い学生用コートを着ていたので、頃は初夏だっだに違いない。
北海道の春は雪みぞれと雨が交互に降る。人々はアノラックやパーカーを晩春か初夏まで離せないのを考慮すると、その当時、今はどうか知らないが、学生が着る黒い、まるで魔女が着るかのような、カラスをも思わせるそのコートがブランドネームのバーバリーのコートとは程遠いものなのだが、一般名にバーバリーと呼ばれていたのを着ていたのがその季節時期だったのだろう。
館を出てバス停に向かって10歩も進まないうちに、ボツ、ボツ、バラン、バランと音を立てて、頭の上には痛いほどの感覚で大粒の雨が降り出してきた。
映画館からバス停までは徒歩で、ゆうに20分も歩かなければ行きつけない田舎路を、私と友人は最初の数分は走ってみたものの、バス停には待合場があるわけでもなく、どうせ、ずぶ濡れになるのは走っても意味が無い事を察した私達は「明日があるではないか」と先ほど見たばかりのヒロインの口調を真似て大笑いしたのであった。
ずぶ濡れの私達はバスの中でも体から落ちる雨しずくを気にしながら空いている座席に座る事をせずに立ちんぼうを決めたのは云うまでも無い。
帰宅後私の濡れ姿を見た母が「風邪を引くよ。早く着替えなさい。」と何時になく厳しい口調で私を嗜め、ついでに「まァ、雨宿りをして小雨になるまで待てば良かったのに。下着までずぶ濡れという事はバーバリーの防水が完全に駄目になってしまったのではないの。」と云ったのが反抗期の私は心の中で『雨宿りして帰宅が遅くなれば、またそれはそれで何か云うくせに、、。でも、これがクタクタになってしまったら、また新しいバーバリーを買ってはくれないだろうな。一緒にずぶ濡れになったCちゃんもお母さんに今頃何か言われているのだろうか。でも、あの映画を観る事が出来たのだから、新しいバーバリー買ってもらえなくても、ま、いいか』などと考えていたのだった。

この時の母の思いに補足するに、私が成人してから母が私に云ったのであった。
「あの時ね、私も話題作の映画が観たかったの。名作だものね。でも、学生のアンタは観る機会に恵まれたけれど、主婦の私にはその当時に映画館通いなんて周りが許してくれない状況だったんだよ」
母は当時には珍しい、いわゆるインテリ女であって洋画や芸術、音楽を幅広く、こよなく愛する女性であり、が、それが世間体にはとても体裁の悪い事として已む無く主婦業を専門に選んだという彼女の人生生活でのいきさつがあったのだ。
以来、大雨の日はあの「風と共に去りぬ」のシーンと共に、名ばかりのバーバリーコートと母とのやり取りをいつも思い出すのだった。

北海道生まれの私には梅雨のシーズンという体験が無いので、イマイチその感覚が解らないのだけれど、うっとうしい気分はこの亜熱帯気候の夏雨シーズンのごときなのだろうと考えたりもする。
勤務の日は4時まで帰宅出来ないので、午後2時半には帰宅する小4のデビッドがスクールバス停から雨の路を、他の子は親が迎えに来た車の内から見ている側を小走りして帰途につく姿などを頭に思い浮かべて、ちょっと悲しくなったりするのである。
ところが、帰宅してみると、「ずぶぬれになって、びしゃびしゃ音を立てて走るのはすご~く、面白いんだァ。家に入るとね、猫が驚いて飛び上がったりするんだよ」などと、当のデビッドは笑い転げる。
男の子は元気が一番だ。この明るさに雨天気に光を感じ、子供に生活を楽しむ知恵を教えられたりする私こそが、未熟者なのだろう。
その後、傘をさすのはお洒落じゃないと信じている14才のテーンの「濡れちゃって、ブラウスがピタピタ気持ち悪い」と言いながら帰宅、(しかも、親が迎えに来るなんて、もっと格好悪いらしい)、それから最後に傘で頭だけは乾いているものの、後ろにしょっているカバンは大濡れの11才、中学生が少しも急ぎ足するでもなく、傘をさすのが楽しいと言った風にゆっくりと雨の中を半渇き、半大濡れで帰宅するのである。
そして私は子供達の濡れ姿を見ながら「早く着替えなさいよ。風邪を引くからね。」云いつつ、『北国の雨は冷たかったけれど、ここのは生暖かいシャワーを浴びたようなものだもの大丈夫。でも、家の中のエアコンで冷たくなって風を引くかもなァ』と、あの時の母の困ったような、そして恨めしい風な目付き顔を思い出したりするのである。

8/18/2006

軽くお喋り6

ハグ・ア・ツリー・デー

外はポツリ、ポツリと小雨模様で、今にもいつもの急な土砂降りになる前のサインのように、灰色の雲が重くかかっています。
窓からその様子を伺いながら、さて、今日の夫の勤務先エヴェントであるハグ・ア・ツリー・デーは巧い具合に施行されたものかどうかと少し案じられます。
ハグ・ア・ツリー・デーとはその言葉のごとく、『木々を抱いて、自然を愛し、人間同士の共同生活の絆を深め、世界平和を願う』為の日なのです。
この催し物は多くの会社や学校の経営マネージメント教育の一環として取り入れらているもので、かつて夫は退職先の某大手航空会社でも数回経験済みです。
その時も、いつもは背広にネクタイの重役や支店長、主任達がTシャツにジーパンや半ズボンという軽装で参加し、「やァ、ボブ、元気だったかい」「おや、ジム、暫く休暇で声を聴いていなかったけれど、子供達はいつもどおり楽しく通学しているのだろうね」などとの仕事場での上下関係を思わせない軽い会話が飛び交うのです。
一般会社でのそういった催し物には、人間関係を良くする会社ピクニックやクリスマスパーテーのような感覚で、何となく理解できる気がするのですけれど、現在の夫の勤務先は州政府公認地区大学ですので、デレクターやプロフェッサー達が軽装でこのハグツリーをしている姿を思うと、何だかちょっと不思議な感じがしないでもありません。
私が誂えたポットラック用のスナックプレートをアイスチェスとに詰めながら、夫曰く「こういう催し物は大人になってから、しかも、自分達が上に立つ立場になって初めてやるには、ちょっと精神的に無理があるよ。人を使う身になって今更ハグツリーではね。子供の頃から自然を愛し、人を思いやる教育を施さないでいてはトップになってから急に思い立っての催しなんて、唯の仕事を休んでパーテーをするいいわけのようなものだしね。それに真に仕事をこなしている人間にとっては貴重な1日なわけだし、明日の仕事がそれだけ遅れてしまうと考えているかもしれない。心のユトリなんていうのはこうやって1日だけを割いてハグツリーをやる事がベストとは思えないのだけれど、やはり、これもある意味に少しは形だけでもやっておかなくてはならないと考えてのプログラムなのだろうよ。」との事です。

日本の会社経営学が世界的にも優れているとそのマネージメントプログラムを取り入れているアメリカの会社が多くあり、夫もそのプログラムのクラスを数時間に及びトレーニングセンターで学んだ一人です。
私自身も日系企業に数年間身を置いたので、その比較に少しばかりの知識を得たのですが、このハグツリーのような、または、多くの企業が取り入れている慈善事業の面に於いては日本の経営学教育の一環にはあまり重視されていなっかたのではないかと思われます。
そして、今、孫達3人を育てながら思うのは、この子等にはもっと学んで欲しい。彼等が大人になったその将来には言ってもらいたくないですよ。
「自然を愛せだと?隣人を思いやれ?いったい、それが自分に何の得になるというのだ」などとは。

8/10/2006

軽くお喋り5


ガラス瓶

私の勤めるドラッグストアには薬局が雑貨店の奥にあり、24時間営業はドライブアップ・ウィンドウでも処方箋薬品を車で乗り付けて、車から降りることなく薬を受ける事が出来るのですけれど、飲酒製品を扱うリカー部門は隣部屋に位置し、この部門は法律によって24時間営業は出来ません。
米国でのアルコール類販売は州法、市政法によってもまちまちで、宗教色の強い州では日曜日にアルコール類販売は法律違反として厳しく罰せられますが、ここフロリダ州は観光地としても名高いところからか、日曜日は正午からは販売可能というところをみると、宗教家が多くても、少しは緩めの規制なのでしょう。

病気休暇を執るリカー部専門店員の急遽代役として今日1日配属されました。
ホリデーの合間の水曜日というものは、この部門の週でも一番スローの日であり、私は朝から部屋で唯独り、ぼんやりと並べられた瓶や缶を眺めて過ごしたのでした。
頭上高くに何方かにはお馴染みらしきドンペリニョンの瓶があって、$159.00と値札がついています。
透明感のあるガラス瓶に食用花やパスタなどの色とりどりをオイル漬けにして台所や窓辺に飾るのが一時流行した事がありますが、ガラス瓶には何やら人の心を引き付ける不思議さがあります。
夫は大のビール好きなので、足蹴にこの部門に通っていますから、私が眺めているその場所の様子は何ら変哲の無いリカー店の様子に違いないのでしょうが、あまりアルコール類を嗜めない私にとっては目新しくもあり、そこに並べられた、色とりどりの洋酒瓶が夢想家の私には心奪われるものがあって、これ等を収集する人達の気持ちが解るような気がします。
最近ではプラステックボトル(ペットボトルと和製英語では云われていますね)に入った洋酒やリキュールが出回っていますが、やはりガラスの瓶に入ったのが、より美しいように思われます。
現に私がカウンター後ろで、そうしてぼんやりしている合間にも、何かの加減で高窓から光がサッと入り、棚からの反射光がキラリと反射して床や壁に虹色を落とすのです。
ガラス瓶には浪漫があります。
様々な色やデザインの瓶を眺めながら、来客がないのを良い事に、私はガラス瓶を、それにまつわる浪漫話などを想うのです。

離れ孤島に漂流した人が海岸で拾ったガラス瓶に助けのメッセージを波に託して流し、その人はメッセージ道理にたすかったのだったかしら、、、。

海賊が宝の在処を地図に書いて瓶にこっそりと隠していたのが、思わぬ嵐か、又は別の海賊の侵略にあって、船もろとも沈んでしまい、その宝の地図はプカプカと世界中を一人旅した後に、心優しい人が発見して、、、。

そうだ、遠い昔に、お父さんのお使いで枡で計って一升瓶に入れてもらった焼酎の瓶を店頭でころんで割ってしまって大泣きしていた女の子に、小僧さんが走り寄って「もう泣くな。ほら、親方が新しい瓶用意してくれだぞ。持って帰れ。もう転ぶなよ。ゆっくり歩いて帰るんだぞ」といったシーンを目撃したのだったなァ。
あの酒屋さんはまだ故郷のあの地にあるかしら、、、。

夫が香港に出張の時に美術館で購入した猫の絵柄が瓶の内側に描かれている素敵な芸術ガラス瓶を私にお土産としてもってきてくれたのですが、これらの洋酒瓶の中にも素敵な絵柄が瓶の中に描かれているのがあって、この瓶はどうやって生産したものやら、、、、。

このように、暇な水曜日のリカー部勤務は1日ガラス瓶に独り夢を見ていた私なのでした。
ガラス瓶には夢と浪漫がありますよ、本当に。

7/25/2006

亜熱帯生活の強風家計事情 その1



税金未払いのお話

「ええ~っ!1万ドルの税金滞納ですって?
なんで~?どうして、もう13年間も離れたハワイ州から所得税の催促を受けるわけッ?
ハワイに持っている貸しコンドは毎月私達に600ドルもの赤字なのに、こちらフロリダ州では所得税が無い事を良い事として、それをハワイ州の税金に計算するなんてちょっとお門違いなのではありませんかッ?」

先日ハワイ州税務署より書類が送られてきて、びっくり仰天の私達でした。
慌ててラスベガス在住の私達の強き味方であるCPAに連絡して調べてもらう事に、、、。
すると、3日後の回答を得て、何というお粗末な手違いにホッとするやら、可笑しいやら、、。
それは何のこと無い機械上での計算ミスといったところです。
要するに、我々がハワイで得る赤字のマイナス数字から私達の年間所得をマイナスしたところマイナスとマイナスで合計がプラスとなって表示されてしまったというわけでした。
確かに学校の計算の初歩では-Xマイナス-Y=+Zと習いましたものね。
でも、今回のこの事で驚かされた私達ですが、このようなシンプルミスで多額の税金を泣き泣き支払わされた人は沢山いるのではないのでしょうか。
幸い私達には長年の付き合いの知識豊富なアカウンタントがおりますが、こういう味方のいない方々は泣き寝入りですよね。
私達のアカウンタントは「ハワイ州税務署は貴方達に謝罪の責任がある!」といきまいて言ってましたが、何時の時も税務署からの連絡書類というものが良いものであるという確率はかなり低いのが平常でしょうから、私達は1万ドルも支払う事が無いと解っただけで「もういいよ、あまり連絡もしてきて欲しくない」と思うばかりでした。
我が家の家計事情に強風を吹かせる税務署さん、無風安全状態に宜しくお願いしますよ。



孫娘の口座


兼ねてから夫と話し合って決めた孫娘の小切手口座を開けに銀行へ行ってきました。
来月から彼女は高校生です。大人の社会に出る前に自立精神を持たせ、自己の生活行動に責任を取り、自分で金銭の管理をするという教育を目的にしたものです。
自分のお小使いを出納帳に記録し、銀行の書類と合比経理をする大人の経済社会の基本中の基本を学ばせようというものです。
私達の毎月の入金の他、彼女自身がバトンコーチをして作る資金などを計画性をもって使い、蓄える事をも考えるようになって欲しいと願っての事です。
彼女のママもダディも浪費家で蓄える事はおろか帳簿合わせがメチャメチャなのです。
そして多分に私もマネービルが不得手です。 (私のドンブリ勘定を知る夫曰く「銀行に勤めた経験がある人だとは思えない」と言う。確かに其の通りなのだが、、。反省)
彼女にはマネービルに失敗をしないよう、つまらないつまずきで人生を棒に振らないよう、今がそれを教える時と夫は信じているのです。
幸い彼女は金銭感覚が夫に似ていて堅実的なところがあり、カードの取り扱いなどもさほど心配はしていませんが、やはりまだ若さゆえの無知という事を安じてやらねばなりません。
そして堅実な彼女でも情に翻弄される立場が多々起きる可能性も高く、他の家族メンバーに資金繰りをしてやるという羽目に陥らないよう、この口座を開ける条件に学業成績保持、金銭の貸し借り厳禁、出納帳提出が約束されているわけです。

今日学用品を揃えに文房具店に行き、私はボーイズの学用品を支払い、そして彼女は自分のお財布から自分の必要な物を買いました。
その後、お隣の洋品店でバーゲンのブラウスを2枚ほど購入。
高校では制服がないのです。
夫は今月は新学期なので入金を多めにしてあげたのでした。
新学期が始まる数週間前に「今週は学用品、衣類は無税」という全地域一斉セールがあります。
テレビや新聞にその由が伝えられ其の週はタックスフリーなわけですが、学用品は10ドルまで、衣類は50ドルまでの購入に対する無税なので、何度にも分けて買い物をする人達がみられます。
でも何度も分けて日参したら車のガソリン代や他の支出があるわけでしょうから、その事にあまり固執しないで買い物をした方がいいかもしれません。
さて、新学期が始まり、生活が平常化してくるに従って彼女のマネーマネージメントは彼女の学業と共に彼女の生活に個人確立向上に繋がっていくものかどうかを、見守っていくという私達の役目がまた一つ加えられた事になります。
彼女の成育が起動に乗る頃には、彼女の弟等の番がやってきます。
我が家の家計事情は相変わらず無風安全状態には落ち着けません。

6/24/2006

軽くおしゃべり


Sちゃんの反乱

  一緒に夜勤を共にする若いSちゃんを私は嫌ってはいません。
むしろいつも無表情ながらマイペースで仕事を淡々とやっている彼女を好ましくも思っているのです。
笑うととても愛らしいのに滅多に笑顔を見せることは無く接客嫌いだそうで、更にその舌にピアスと少々太めの体にロックグループのTシャツといういでたちが嫌われてか薬局部で薬剤師アシスタントとして雇われたのが薬局部から締め出されてしまい夜勤レジに廻され1年になります。
初対面から数ヶ月間は私の同店勤務復帰に警戒してか、又主任達にことごとく私の勤務状態とを比較されては低い評価報告を受けるに至って私とは距離を置いて接していたようでした。
がそれもすぐ私が主任達に彼女の働きぶりをかっているのを話している事を察し私には笑顔を見せる様になったのでした。
私が勤務先で極力接触を避けたいと思う人間をリストしますと、

1.自分が怠け者である事を棚に上げて(というより、怠け者だとは気が付いていないのかもしれないが、何にも一応に無関心なのに何故か文句だけは沢山もっていて)不平不満ばがり云う人
2.自分を過信してえばり散らす又は言動尊大な人
3.自分の間違えを認めず、更に言い訳をして人のせいにしては職場仲間を陥れる人
4.自分の立場や職務を把握しないで成すべき仕事をせずいかにその任務から逃れる事が出来得るかのみにエネルギーを費やす人(簡単に云えばズルイ、小賢しいに人間)
5.嘘を平気でついてその真意が問われた時にあれは冗談だったと云う人
6.人の手柄を(重労働の成果を)吾が物に摩り替えてしまう人
7.口車に人を乗せるのを特技とする人(おだて上手だという事ではなく、人を誉める事はしないで言い訳上手で他人に仕事だけを押し付ける)
8.他人の性格や生活状況を知らないのに自分の状況にのみ当てはめて人を判断し噂や誤解を生み出す人
9.聞きかじりの情報でどんどん事を進めていくか又は事を細部まで把握しないで投げ出してしまう人(チームワークなんて言葉を知らないのかもしれない、俺は俺、私は私的要素で事が進められ計画倒れになる事が多い)
10.言葉のTPOを使い分けられない人(友人も上司にもナアナア言葉で自分本位のモードでしか人と対応出来ない)
等々リストすると切が無いのでこれくらいにしておきましょう。

この10項目の1~8までをクリアのSちゃんは私の心のリストでは好成績なのです。
(陰の声-そういう貴女自身はどうなのよ。胸に手をあてりゃ他の人の目からは高得点でな無いでしょうよ。たとえば9番ね、時々独りよがり、投げやり的なところがあるでしょう。他だってね人の目からすりゃァ解りませんよこれだって)
陰の声が聞こえてきましたが、今は私自身の事を話しているのではなくてですね、Sちゃんのことなので、その辺はちょっと置いといて、、と。(お、ズルイ-再び陰の声)
えーと、なんでしたっけ。そうそう、Sちゃんの事でした。
先週の事です。
このSちゃんが「もう我慢出来ない!私も日中勤務に替えてもらうッ!!」と怒り心頭の態で支店長に掛け合いに行くと言うのです。
何があったのかと云いますと、その夜は私が来月末には日中の勤務時間に移ってくので新しく雇われた女性のトレーニングを私が任された事で通常の私の仕事は半分だけを彼女にさせて私は主任Cさんが通常の勤務としている半分を受けてするという変則型の勤務でした。
働き者の主任CさんはCさんで支店長からの何やら見直しプロジェクトをかかえており彼女なりの頑張りが来月の勤務スケジュールを組む事で不安があり心に余裕をなくしていたのかもしれません。(加え、彼女の喫煙がドクターストップで現在禁煙中、ちょっとイライラしている時期でもあるのです)
その夜の新人の仕事状態があまりにもスローである事に不安をもったものか新人Hさんが3度目のお手洗いに行き戻って来るにあたってCさんが声を上げました。「貴女ね~、トイレに行くなとは云わないけれど行ったり来たりの時間ロスに、それ、椅子に座って仕事が出来るわけないでしょう。」
彼女Hさんは18ヶ月の子供がおり日中の眠りを妨げられて2時間程しか睡眠が取れなかったと私に話していて、丁度その時運悪く椅子に座っていたのでした。
「貴女にはこの彼女(私を指して)の替わりをやってもらわなくてはならないのです。いつもだとこんな仕事は2時間もあれば全部やり終えて他の事をやっているはずなのです。貴女はもう5時間以上もかけてその半分も終えていないじゃないですか。貴女が8時間勤務で彼女が6時間勤務なのには理由があります。同じ仕事内容、いえ、彼女のやる仕事量のその3分の一に会社が貴女には2時間の余裕を上げて支払ってあげるということなのです。」(私達は時間給なのです)
側で聞いている私はいたたまれません。
『まだ何やら解らぬ新人に私を比べてはいけません。』と心で思っているもののそれを口に出すと主任として指導権を受け持つCさんの責任者としての信望を踏みにじる事になります。
トレーニングがなされていないのですからそうそういっぺんに事が出来るはずがありません。
Cさんはそれを承知の上で話してはいるのでしょうが仕事容量より人生の経験だってまだ私の3分の一のHさんにそうもせっかちな発言は可哀想というものでしょう。
53才のC主任は声が大きくフットボール、バスケットボール、カーレースとスポーツ大好き独身で男勝りの貫禄がおよそ女性的感覚ではなく普段でも普通に話しても人は叱られているような気分になるのです。
新人のHさんにとっては唯の教えの一環としてのC主任の言葉も唯単に叱られているとしか受け取れては居ないのです。

そこへランチ時間を終え、自分の仕事を全部こなしたSちゃんがさて何をしたものか、、といった風に私達の方へ来たので入れ替わり新人Hさんをランチに向かわせる事にしました。
私は6時間勤務なのでランチタイムを取りません。(取る事も可能なのですが)「Hさんがランチタイムの間に貴女の事だから全部やり終えてあげたいのでしょうけれど、仕事を覚えるまでは指摘の部分は全部させるようにして下さいよ」と主任に釘をさされてしまい、私に与えられたプロジェクトの一部の仕事はもうとうにやってしまっていたのでSちゃんと整理整頓をしながら先週の勤務報告談義などをし始めたところでした。
と、主任Cさんの大声が。「Sちゃん、貴女20分もそうやって同じ格好で突っ立っていて、仕事はどうしたの!自分の仕事だけが仕事ではないのよ。一体全体貴女という人は見るといつもそうやって何も仕事をしないで突っ立っている。何?文句あるのなら支店長に話して、一緒にミーティングしてもいいわよ。そうしたいの、え?」
おや、主任Cさんは何やら今日は不機嫌なのでしょうか。
いつもより更に語調が強くSちゃんの勤務態度が気に入らぬと一緒に居る私には目もくれず、案に私には『貴女には問題があるわけではないのよ。これは支店長からも公認の言動ですからね』とばかりに真っ向からSちゃんのみに向かって成されたものなのです。
CさんがSちゃんに「会社はただ立っているだけの人間に給料は払いません!」と云ったのを見るのはこれで2度目の事でした。
後にSちゃん曰く「主任は自分の仕事を手一杯手伝わせるくせに私にはいつもああやって給料ドロボー呼ばわりをするのよ。貴女の前ではそうでもなかったけれど、ひどいものよ。」
以前一度私が主任Cさんの頑張りを人に押し付けるのは夜勤雇用人には酷かもしれないと言った一言が主任長の耳に入り、支店長からCさんが注意を受けるといったエピソードがあって暫くはあれやこれやと云わずに仕事をさせてくれていたのでした。

私は思っているのですが、夜勤というのは夜勤手当があるのでもお解かりのように防犯役をも務め、お店番としてその場にいるだけでもその勤務に一部の役割を果たしているはずなのです。
私自身は自身の「貧乏暇無し」の性格が邪魔をしてか与えられなくともちまちまあれこれ走り回ったりして自分を疲れさせているわけで、果たしてこの私の勤務状態を皆がするべきだとは決して思ってはいないのです。
主任には主任としての任務がありそれにあった給金を受け、雇用人にはそれなりの任務を遂行するスケジュールと給金が支払われているとの前提でのそれぞれの役割と考えます。
ですからSちゃんが与えられた仕事を充分にし終えた後というのはその店番としての「そこに居る」勤務をしていると考えているわけでSちゃんも私がそう理解している事を承知で私とはウマが合うのです。
それにSちゃんはもし主任が「これこれをやって下さい。この部分に人手が足りないのでそこを補助してやってくれますか」と云われれば「嫌です。それは私の仕事ではありません」などと云う他の若者とは違い、無表情ながら依頼どおりの事はやり遂げる人なのです。
働き者頑張り熟女主任Cさんには「給料をもらうからには自分の仕事をやり終えたら余る時間は自分に出来る仕事が無いか探すのが当たり前」と思っているのです。(う~ん、私も昔はそう思って部下にその様な事を言ったことがあるかもしれません)
確かに私達に当たり前な行動にも今の現状に於いては私にはそれが必ずしも適した考えだとは思えないところなのです。
時間内での仕事をもってスケジュールを組んでいるというのならば、職務立場としての課せられた任務を終えたらその時間で勤務終了として帰宅しても良いという事の裏返しにもなり、もし皆が平等に自分の任務をこなしても更に他の誰かの任務をカバーしなければならないのはグウタラ怠け者の仕事を働き者が倍の仕事を強いられる事にはならないはずです。
果たしてどうなのでしょう。
商店にとっての店番という形は一種の勤務状態ではないのでしょうか。
事実Cさん以外の数人かの主任達に「早い時間に仕事を全部終了してくれてありがとう。あと時間のスケジュール帰宅時間まで座って店番だけお願いします。」と云われたことがあります。
他の主任達は若さに似合わずそれ程のエネルギーも向上心も無いものか私に任せての勤務でありそれで私にそれ以上の無理は強いるわけにはいかないと思い知っての事でもあるようです。
Cさんは私と同じ勤務行動型で一晩を通してあれこれ暇無く身体を酷使しての仕事を遣り通す人なのでそれが勤務するという事だと強く信じているわけで、身体を使っていなければ勤務しているとは云えないというのが彼女の考えのようです。

7月12日をもって私の夜勤が終了するそれまでにはなんとか皆がそれぞれの任務を遂行出来る様にすべきだと焦る思いのC主任はSちゃんの協力も大事なはずなのに「無能呼ばわりするのなら夜勤なんかに留まっているわけにはいかない!」と反対に立腹させてしまったのです。
「夜勤を希望してくる人はそういないし、どれだけ大変なのか思い知るはずよ。」といきまいているSちゃんですが、支店長は今ヴァケーション中来月まで戻りませんし、支店長が働き者のC主任を頼りにしている事も事実であり、Sちゃんを以前に薬局部から格下げしたのもこの支店長ですからSちゃんが返って悪い立場に置かれるのではないかと内心私は心配しています。
ふ~む、Sちゃんのこの小さな反乱は何とか丸く収まるだろうか。
ちょっと心配です。

6/19/2006

軽くお喋り4

ぼちぼちといきますか、ぼちぼちと

何故かインターネットの繋がりがスムーズにいかなくなった。
スパイウェアやら何から入れていて常に悪いサイトがプログラムを壊さないよう気をつけていたはずが、何と自分のサイトのプロバイダーから私のサイトがスパムとして拒否なる受信があって、不愉快極まりない。
「私はスパムではない!」の記事を送りつけてみたのだが、考えるとネットのプログラマーにいちゃもんつけたところでお互い何の得にもなりゃしない。
世の皆さんが泣いて口惜しがるような重要な事柄の掲載をしているでも無し、この事で落ち込んでの生活はエネルギーの消耗となるばかりじゃないのさ。
ぼちぼちと解決する他ない。

ぼちぼちと改善に至るお話のもう一つに私のドラッグストア勤務がある。
私が一時期10ヶ月の間をおいて最寄ドラッグストア勤務に戻っての8ヶ月間でストアの改善が著しく成され先月の本社報告リポートで驚く無かれ化粧品部が537%アップの売り上げを示したのだ。
在庫管理成績もE(落第寸前)からB+と好成績の逆転を見せ、やる気無し若造主任達にもそれなりの刺激を与え皆が少しずつ以前よりずっと改善された勤務態度として反映され始めている。
7月半ばから日中の勤務に移ることにした。
今現在の勤務時間に無い時間帯を希望した為に支店長が急遽私のその要望でスケジュールを回してくれる事となり他雇用者の勤務スケジュールの見直しが始まった。それまでが8時からの日中勤務スタッフは支店長が9時頃まで出勤しないのを良い事にだらだら8時半頃出勤するといったそのロスを指摘してのスケジュール見直しでもありスタッフの勤務態度の気分転換でもあるのだ。
無論主任達に依存は無い。例え単なる腰掛程度にその地位に甘んじている彼等もやはり支店長から信抱されるのは快い生活を過ごしていけるだろうから嫌々ながらやる仕事は何のプラスにもなり得ないのである。
皆のまわりがぼちぼちと改善され続けられるのは誰もの精神衛生にも良いに決まっていると私は思っている。

ぼちぼちとやっていこう。
私も夫も何事にもムキになるというか、全ての事に精神を総動員して気持ちの投入をしてしまう悪い(時にはそれも良い事なのかもしれないが)癖のようなものがあって男の彼はある程度でぷちっと気分を断ち切れるところがあるらしいが、私はそうも行かずに悶々と、ウダウダと、クヨクヨと、ウジウジと事を自分の生活に入れ込んでしまうところがあってどうもかんばしくない。
夫はアメリカ人に一番多い大陸型のO型、私は日本人に一番多い神経潔癖症型のA型で血液型にしてもそれぞれ生まれの国の一般的人間なのだが、我々はそれぞれが違った意味の精神投入没頭癖があるのだ。
夫はこらえ性があり、私は諦め性には優れていると思う。
寄る年で夫のこらえ性は徐々に短くなりつつはあり、私の諦め性は排他的になりつつもあるけれど。
日本のTV番組の「オーラの泉」式に鑑定するとですねェ、「まァそれはもって生まれた前世からの宿命でしょうからね、ぼちぼちやっていくことですよ。ぼちぼちね」とこうなるのかもしれない。
うん、多分そうだ。ぼちぼちやるしかない。

6/18/2006

お笑いー手のお話

あの手この手のお話ではなくて、又、濡れ手に泡なんて事でも無くてですね、正真正銘の手(ハンド)の事なのです。
今朝自分の手を眺めて「ふ~む、年をとってはもうモデルも無理だな~」などと感慨に耽ったのであります。
「えっ、そのデカ顔、胴長短足満丸体がモデルとはいけしゃあしゃあと云ってくれるではないか」と憤慨する輩も出てきましょうが、ま、憤慨しないまでも「とうとうその姿ばかりか脳の方にも異常をきたしたか」と憐憫の念を私になげ掛けてくれるやもしれません。
しかしご安心あれ。私の脳は容量が少々、いや、かなり減った今も自分をそのような恐れ多き立場に置くとは想像だにしないふつーの働きをしておりますです。

だったらモデルというのはナンナノダと思われた方に改めてご説明しましょうかね。
手の事なのですよ。手。だから先に云ったでしょう。手の事だって。
20代の頃思ったのですよ。 私は手の甲美人なのではないかしらと。
他はどうあれ、手の甲はなかなか自分でも見栄えがする気がするなァと。
手の平はやはり駄目でも、甲の方はちょっとばかり節が骨ばったところがあってすら全体に小ぶりで丁度良い色合いと造りではないのか。多分そうだ。
しめしめ、もし先行き学業も身につけられず、結婚の当ても無く、就職も侭成らないとしたらこの私の手の甲が何らかの助けとして私の生活を支えてくれるのではないか。
何故手が生活の支えとなるのかって、あるのですよ、それが。
手だけのモデルとか足だけのモデルといった体の一部のみのモデル業というのが。
ハンドクリームの宣伝だとか他色々、手話の映画出演とかそういうの、アメリカのコマーシャル業界には沢山のメンバーが名を連ねていると云います。(手の有名人というのがいるのかな)
しかし私は手でも甲の方だけで平の方はちょっとクローズアップされたらやはり困るかもと考えをあぐねていたのです。
何故手の平が駄目なのかと言うと、私のそこには他の人に無い稀な手相がありありとうかがえるからなのです。
生前よほど苦労性だったものか今生に生れ落ちた時には数知れない無数の皺が刻まれていて幼い頃手を見比べて遊んでいた時には「きゃ~、アンタの手ってお猿さんみたい~。皺々だね~、ホラ、皆見てご覧よ~」なんて云われ続けておりました。
大学生の頃にはその当時新宿(確か伊勢丹の前だったような)に若者に人気のある女性占い師さんがいましてですね、もしかして覚えておいでの方もおられるやもしれませんが、そこで大枚500円出して手相を見てもらったのですよ。
500円とお笑い無かれ。ン数十年前の月額3万円からの仕送りの中の500円というのは貧乏田舎学生の私には大金でありました。それで当時は単行本が2冊も買えました。(と思う)
「おや、貴女の手は500人に一人いるかいないかの手ですよ。皺が多いというのは悪い事ではないのですよ。人は苦労性などといいますけれどね。これは貴女が今幸せである事を示していますよ。そして人生で30代になったらもっと数倍の幸せを掴む手相です」とそのお方はの賜りました。一語一句そのように間違いなく記憶しています。(今の少ない脳細胞でのおはなしですけれど)
で、30代に楽しみにしていたのですが、その時から比べてそれが数倍の幸せな生活なものかどうかはちょっと解りませんでした。

ここまで書いて「あれッ、500人に一人というフレーズに覚えが、、」と思ったわけで、人は何故稀だという事を500人に一人とか1000人に一人とかいうのでしょうね。
何だか嘘くさい。
私は以前に夫の心臓が500人に一人という稀な構造であった事を書いた事があります。(読んでくださった方もおられるかと)
とすると私達夫婦は500人に一人同士カップルなのです。よって500人の2乗家族という事は稀の稀なのでしょうね。どうも何だか変な夫婦だと自らも疑ってはいたのですけれど、なるほどとうなずけました。
話を戻します。
そこで今手の平を見ますとですね、あれほど多くの皺々が以前ほど見えません。
この年になると日常生活の酷使で擦り切れてしまったに違いありません。
今はもうお亡くなりになったらしいかの女性占い師にこの手を見てもらったら何というでしょうかね。
「おや、200人に一人の手相ですよ。今幸せでしょうけれど人生70代になったら少しはマシな幸せを掴むでしょうね」と云うかしらん。
その手の平の皺が少なくなった分、甲の方に移ったような気がします。
それで今朝この手をつくずく眺めて「う~む、モデルはもう出来ないな。という事は70代で手のモデルでお金を稼ぐのは無理だし、学業、職業も駄目だし、夫は500人に一人の心臓ではもうもちそうにないよ~と云うし、この手相が幸せ掴みに役立っているとは思えないなァ」という結論に至ったのでありました。

6/05/2006

軽くお喋り

食についてのお話

孫娘の体力作りのスポーツセンター通いの送り迎えをする合間の時間をそのビルがあるショッピングセンターの散策をして待つ事にした私はそこに大き目のゴメイフードマーケットがあるを始めて知った。
店内に入るといつもの最寄のマーケットのような騒々しさがなく照明もちょっと暗めでクラシック音楽が流れて心地良い。
店前方には切花の一角が色とりどりに置かれスポットライトの下で美しい。
ワインやブレンドコーヒーの多いこと、パスタの種類も色合いも楽しい。
スウィートコーナーにはチョコレートやケーキ類もとても可愛い綺麗な形や色合いが絵のようだ。
何も買うつもりは無かったのだがキーライムパウンドケーキの緑がとても綺麗だったので一つ、そしてまん丸ぷりぷりして形の崩れが一粒も見られないラズベリーの小箱一つ、今日の夕食にと青々サラダ用ほうれん草を購入。
日常の食料品を買出しに行くのが苦痛の私でも、食べるという事が観賞するという感覚で味わえるこういったゴメィフードマーケットは大好きなのだ。

戦後の物不足に加え両親共に薄給の教員生活であった私の幼少時代の食卓は貧しいものであったのだろうが母の英知が創りだす食卓は決して私を貧食なのだとは思わせない工夫があったように思う。
その当時住んでいた小さな炭鉱町は後に惨めな廃鉱となるまでの数年間は栄華を極め、鉱山管理責任者や役員達の高給がさぞや豪華な食卓を創っているものだろうというのがその頃の母の溜息交じりの口癖のようなものであった。
高価な食材を求める事が出来ない母はアイデアで「・・・もどき」を作り出すのが得意であった。
私はその「・・・もどき」が普通の料理と思い込んで育ったので学校の作文などでそれを自慢げに書き記した文を読んで母が「こんな事を書くなんて、恥ずかしい、恥ずかしい、、」と怒った事がある。
ある時からは説明が必要と思ったものか「本物の磯巻きには・・・がはいっているのだけれど、今日のは・・・を使ったのだよ」というように「本物はこうだけれど、これは代用物使用だから」と後に私に言い訳のような事を云うようになった。
食材不足を他のもので補うのはいつもの事で当時は栄養価を考えるよりその満腹感をいかに最小の食費で賄えるかという工夫に苦労しての事で、我が家の主食はいつも白米に麦が混ざっていたし、玉子焼きには小麦粉の溶かし汁が入っていたし、時にはその麦交じりのご飯にも更にサツマイモなどが一緒に焚かれていたりした。
私はこれ等の母の料理はとても美味しいと感じていたのでそれが母の云う「偽物料理」とは思わずにそれが私の母の料理の腕の見せ所だと自慢にさえ思っていたものである。

この母の料理工夫上手が私に食の好き嫌いが殆ど無い一因であると思うのだが、だからといってこれといって取り上げての好物も注してないといった食一般が好きということに繋がる。
しかし寄る年齢と長年の暮らしぶりからか私にとっての食嗜好は今ではどちらかと言えば芸術や音楽を楽しむがごときの生活の潤いとしての要素が多いように感じている。
観るのが美しく、造る人と食する人に絵画や音楽を鑑賞する時のような満足感を得られる食がいい。
もし私がその食を思い通りに望めるとしたらの話だが。
しかし現実の食生活問題としてはいささか私惑とは異なり毎日を「さて、今日は子供達の好きなパスタ系でいくか、大人の好きな肉料理でいくか、、」などと大雑把な腹ごしらえ的極々普通であり食の芸術などというものからは程遠いものなのである。

極貧生活を強いられた食という行為が死活問題であった幼少時代を過ごした夫の食への想いは私のゴメィフードマーケット好きを理解するようになったのは私への優しさに他ならない。
彼の日常が豊かな食材を使っての食卓を持ったことは稀であるだろうから私のそれより「もどき料理」が多かったに違いない。
もっともその「もどき料理」さえも作る食材事態に窮しただろうから、彼が生きながらえたのは温厚な地主の許可のお陰で収穫の後の売り物に成らない畑の拾い物を得る事が出来たからなのだろう。
今現在も彼は毎週最寄のマーケットで「お買い得パック」や「一個買えばもう一個は無料」なる宣伝文句を見ると買わずにいられないらしく冷凍庫の中にパックの肉の塊が山と押し込められる事となる。
これらの食材にうんざりした顔をしては申し訳ないと思う反面、安けりゃ買っておこうと思うのは止しにしたいとは云えずにいるのは夫の幼少時代がいかに苦しいものであったのかを察する事が出来るからなのである。
我が家での食卓で子供達が食べ物をお皿に残したり、粗末にしたりすると夫が「世の中には貧しくてこのような食べ物を食べたくとも食べられない人が大勢いるのを忘れてはならないよ。インドやアフリカや南米諸国、それにこの国でさえもね。」と必ず云うのがお決まりとなり、子供の誰かが「これ、残してもいいかなァ」と言うと同席の夫が「世の中には、、、」が始まり、子供達は3人ともソレっとばかりに一緒に口を合わせて「世の中には貧しくて、、、」と言葉を続けてその暗唱文句を唱えるのである。(笑)

いつかゆっくりゴーメィフードの食材でゴーメィフード料理を独り心ゆくまで楽しむ事をしたいものである。
それは何時の日なのか今は皆目見当も付かないのだけれども。

今日も孫達が入れ替わりたちかわり台所の私に顔を見せていつもの”合言葉”を発します。
「夕食まだァ~、今日は何?」
「もうすぐだよ。今日は・・・・(私はいつもはっきり何とは云わないのだ)」

6/03/2006

易い考え、、。

幸と不幸の合間と頂点のお話


私の人生に於いて何時が一番幸せで何時が一番不幸な時なのだろうと特に真剣にでは無いのですがぼんやり考えたりすることがあります。
それはやはり人生も後半に入った私の生きるという事への愛惜であって年齢の成せるところなのかもしれません。
しかし青春間っ最中と云う時期をとうに過ぎた今の私は年齢にともなって幸と不幸の定義たるものが曖昧になってきており、又それらを探求する精神にもかなりの低迷さを感じているこの頃なのです。
しかも今現在もまだ私の生涯というものが続いている限りは今を基点に振り返っての事ですから、人生そのものをひっくるめての一生というものを自分で判断する訳にはいきません。
よくTV番組の対談などで人が話しているのを見聞きすると「あの頃が一番辛かった」とか「その時が私の一番の幸せの絶頂でした」などと言っています。
でもその当人さえ実のところはその時点に於いては『これが人生におけるどん底』だとか又は『それが至福の絶頂』だとは知らずに生活しているはずなのです。
全てが「今の時点ではこれまでに於いての人生で一番印象に残っている事態です」という一つの思い出語りに過ぎません。
幸も不幸もその真っ最中ではこれがピンなのかキリなのかとかの判断は出来ないはずなのに「幸運の最頂点に立って晴れ晴れとした気分になった」とか「これ以上のどん底はないだろうと死を選ぶ」といった話を聞くのが私にはちょっと腑に落ちないのです。
実際私自身にしても今までにおいて「嗚呼、何と哀しいのだろう。もしかしてこれが私にとっては人生最悪の状態無いのだろうか。今度はもう駄目かもしれない。再起不能なのかもしれない、、。」などと嘆き哀しんだその翌日にはその思惑から逃れて涙を拭き、そ知らぬ顔でひき続き生きてきたではないか。
そしてその度にその悲しみが人生最悪のものでもなかったのかもしれないとさえ後日には考え直したり、それ以上に悲しい惨めな出来事に出くわしたという事態の時もあったろうし、又はそれからが上向きに楽しい暮らしがやって来てやはりそれがその時期には最悪時点ではなかろうかといった時もあったりで、やはり取り上げて一つの自体が人生丸ごとの陰陽の頂点とは言い切れないのです。

幸も不幸もそのものは当人の見方、受け取り方次第でもあります。
私自身の事で云えば、その一時点のみを毎回クローズアップしての一時の感情の波にしかない事態を一大事がごときに錯覚をするという悪癖があるとも云えます。
要は私が浅はかで大袈裟な単純極まりない頭脳の持ち主であることを証明している様なものです。
ある時にはこれ以上の悲しみがあるとしたら何と恐ろしい私の人生よ、と思うその心の奥ではこれしきの事でこうも哀しむのは嘆き癖の自分が大袈裟に事態を儚んで自分の暮らしぶりに味付けを施しているに違いないなどと冷めた自分がいたりするのです。
幸と不幸の判断にしても誰かの幸せが他の誰かにとってはそれがひどく不便不自由な不幸であったり、同じく誰かの不幸は他の誰かにとってのそれはとんでもない贅沢な事であったりとその基準さえも個人個人では観点が大幅に違うものです。
どの人の生活にも自分の思考や受け入れと心の戦い一つで自身の人生の道は厳しくもなり易くもなるという、幸と不幸の合間で試行錯誤しながらの今現在の暮らしがあるわけです。
思うに人はこの世に在している限りには常に幸と不幸の合間を定めることなく漂っているだけであり、一事態を執ってして云えばそれらは幸と不幸の絶頂と成り得る要素として人生をより変化のある興味深い一生創りの一部として生きているだけという事になります。
しかも人の一生の幸と不幸の頂点を云うとしたらそれも第三者からの観点でのお話です。
果たしてそれがその人を全面的に知り得る人の観点でなければこれまた事実かどうかも怪しくなるという、、人の一生を注してその人生を云うのがいかに難しいものなのかという事になりましょう。
ならばその幸と不幸の合間に生きている当人が毎日をこれが頂点であると思いながら人生を生きていくより他ありませんでしょうね。
幸も不幸もどちらも当人の暮らしぶりと思考でどちらの頂点にもなり得るわけですから。
私はたった今のこの時点でさえ、その幸と不幸の合間をそのどちらの頂点に成り得る可能性の暮らしさまよっているのでしょう。
それが生きるという事なのでしょうから。
解っているようで、解らない。理屈に合っているようで理論の成り立ちがない。
やはり、私の考えは支離滅裂でしたね。
またもや今日の私も『易い考え休みに似たり』であります。悪い癖です。

5/23/2006

一巻の終わり


無礼者!!もう我慢ならぬ!打ち首にせよ、打ち首じゃ~!!
我等が城の財政を考えたゆえにソナタが「どうぞ気持ちを改めますゆえ今のところはご堪忍を~~」と一応はしおらしく唱えるのに殿の仏心もあって「のお奥よ、お前様の心には可愛い者を亡き者とした仇と恨み辛みもあろうかと思うが、ここはまだ新参者ゆえの不心得もあろうかと今一度は許してやってはいかがなものか。新しい者を探すにも今の我等が城の財政はそうも易いこともなかろうて。」との言葉に、『シメタ悪行隠滅したり』とばかりに裏では舌など出していたに違いなく以来改心の意も見当たらずに悪行に継ぐ悪行。
「殿、我はもう我慢なりませぬぞ。お見やれ。この者がことごとく壊したるものを。これでもまだ我に我慢せよとおっしゃりますやら。」
いよいよ堪忍袋の緒が切れて、怒り心頭声も荒立てこの悪しき者をまたもや殿の御前に引っ立てたのでございます。

今日の私は日頃のおさんどん役から格上げで奥の者となってのこの事態。手にはボロ布と化したシャツが握られております。
私の指す指先にあるその者は例の悪しき使用人、乾燥機にござい。
「おー、これはひどい。どれどれ。新参者にはこの先は長く、まだ身を尽くしてくれようぞと憐れみをかけて置いてやっているのに何故に機嫌良く働いてはくれぬものか。」と殿。

「おや、これは自滅だわい。もう息も絶え絶えで普通ではない。この新参者遂に狂い死に致す様子。聞きしにまさる狂いたる者じゃ。この者すぐにでも島流しに処せい。代わりの使用人を直ぐにもあつらえようぞ。奥には辛かったであろうが吾が漆茶可雌茶可城(シッチャカメッチャカ城と書くと洋式の城のごとき聞こえなので漢字で書きましたが、これは「しっちゃかめっちゃかじょう」と読んでくだされば幸いであります)の財政が苦しいが為にこのような事態を迎えようとは思わなんだ。しかしもはや致し方ない。奥には悪い事をしたよのう。許せ。」と殿はのたまったのであります。
愛猫よお前の仇の留めはさせなかったけれど、せめて狂いたるその者をもう見て暮らしを共にしなくなった事を我は嬉しく思います。
どうぞ成仏なさいませ。(合掌)

かくて吾が漆茶可雌茶可城の狂いの者には天罰が下り一年ももたずとも自滅の身となり城から取り除かれたのでありました。
そして我々は次なる使用人を雇用すべく嬉々として近くの電化製品販売店を訪れたのであります。
殿のお許しが出たので、しかも殿自らお出まし面談にあります。
果たして次なる使用人はいかなる働きを致しますことやら。
果たして今日は奥の私が城の財政を建て直すべく再びおさんどんに格下げされての、この次たる雇用者と共に働く日々はいかに。
今日はこれにて一巻の終わり。

***このお話はある一部の人には腑に落ちない小話でしょうが、私の生活をちょっと垣間見た方には納得していただけた事だと思われます。

5/14/2006

母の日に


日本人が葉書や封書で自分の想いを表現するのと同じにアメリカ人にはそれをカードに求めるのが普通のようです。
母の日前日のドラッグストアー店内はクリスマス時期のそれ以上の混雑振りです。
カード売り場にはいかに自分の心情にぴったりの言葉や詩が書かれているものは無いものかと多くの人達があれこれ手に読み調べていてカードもそれを入れる封筒類が棚や床にも落ち散らばっている有様なのです。
年々カードも値上がりで一枚4ドル~10ドルも支払うのですから母の日にちなんでのものは母親は無論、その日に想う人へのカードを数枚購入するとカードだけでも大出費になるはずです。
カードというものを写真同様その人の生活で受け取る心の想い出品の一つとして一生大事に保管しているという人もいれば、毎年の時効儀礼としてその時を楽しみ時期が過ぎると捨ててしまう人とかがいますが、どちらにせよ自分の想いを代説してくれるわけですから時間をかけて選ぶカードがその値に充分価値しているものなのかどうかは私にはよく解りません。
個人の生活と心を計りようもありませんし。

店内で一時間以上もあれこれ読み探した上で「カードというのは何故こうも甘ったるい言葉ばかり連ねているのだ!仕方なくてカバーに綺麗な写真の何も書いていないのを買うことにしたよ。どう、これ?」とカウンターでおっしゃる常連のお客様に「ええ、とても綺麗な写真ですね。これに一言、二言ご自分の言葉を付けると申し分無しでしょう。」と私。
『アナタの感性と他の方のは違って当たり前。だからこんなに沢山の種類のカードも出されているのでしょうから。自分の心とその言葉を信じる事でしょうね。アナタはアナタで或る為にはね』とは思っても口には出せません。
誰かが考えた文であれ、自分の言葉であれ渡す相手に自分の気持ちが届けばそれはそれでよいのですから。

カードに次いで人気のプレゼントは何と言っても花束や花や植物のアレンジメントで、これも花の色で選ぶ人、その先具合で選ぶ人まちまちではあっても昨夜は一番人気の薔薇の花束を何回も冷蔵庫から出してはバケツに並べました。
或る若者が沢山の薔薇の前から赤い薔薇の花束を手に私に大声で聞きました。
「ねぇ、薔薇はこれだけなの?これはあまり丈夫そうでないよ。」
えっ、アナタは沢山の薔薇の花束棚の前に立っているのにそれらは駄目なの?
不振に思って聞くと、「え!これ等全部が薔薇なの?薔薇って赤い花の事だと思った、、。ピンクや黄色や、そのオレンジ色のも薔薇なのォ?へ~っ!」
多分その時がお花を買った初めての若者なのでしょう。
笑っては可哀想だと思いながらこの若者が自分の知識に知る花といえば薔薇、それも赤いのを母親にプレゼントしたかったのだろうとちょっぴり笑いがこみ上げてくるのを我慢した私でした。

さて今日の母の日にはどれだけの人がこれらのカードとお花に「あ~、ありがとう。何て素敵な贈り物なんでしょう!」と感涙に咽んでいることなのかしらと毎年ながらちょっと考えました。
お花も、カードもその貰う機会や繋がりも無い人達も世には五万といる事でしょうから、その方達にはカードやお花が無くとも今私の心からの生活エールを送らせて頂きましょう。
今日一日だけが大地を支える女性の日ではありません。
毎日、毎日があっての今日一日なのでしょうから。
Have a great day today & always!(どうか今日もいつも最大の良い日でありますよう!)

4/30/2006

100年目の花


私の記憶の中の母はいつも半泣きのような顔である。
「今までの自分の生涯は有意義なものだったと思う?今の自分に満足している?幸せだと感じる?」
今思うと何とも幼稚な質問をしたものだと思うのだが或る日私は母の心が知りたくて聞いたのであった。
母は一瞬驚いた眼を私に向けてからその視線を何か遠くの思いに繋げているかのような面持ちをして小声で言った。
「有意義に生きたかどうか、、。幸せかって?多分。不幸も不幸だったろうし、、、考えようだね。特別これといって取り立てて幸せだとも云えないけれど、多分生きるといる事はこういう事なのだろうなという程度の人生かもしれない。」
何を今更聞くのやらと思ったのかもしれないがその時の母は私のその質問に笑う事もせず、かといって深刻に話し込む様子でもなかった。
元来が口数の少ない人であった。
当年母が還暦を迎えるに数年前の今の私の年齢ぐらいの事であったと記憶する。
母に何かを期待して聞こうとしたのではない。
当時渡米生活を結婚という安易な形で自分に仮せた少々の後悔が私に母の人生と合わせての女性観を知りたかったのだ。

母の生い立ちは北海道の田舎町の貧しい生まれであり、昭和初期の当時には稀な大学進学生としての上京・帰省は田舎町ではその度に駅に近所の子供達が集まるほどの大ニュースであったらしい。後に母の妹である叔母が「駅に迎えに行くのが誇らしくて、姉さんが雪道を袴をひるげ歩く姿を追いながら廻りで子供達が『東京からのラッセル車が通る~』とはやし立てるのも嬉しかったものだったよ」と言ったものである。
戦前の英語教育を受けた母は英語弁論大会に出場した事もあるらしく、時に英国国歌や英語童謡などを口ずさんでいたものだが戦時中に非国民と云われるのを恐れて英語が出来るという事を隠し、そしてそれは母の中から忘れ去られていったようだ。
貧困家庭の口減らしの意味もあって読書と勉強をさせてもらう事を条件に当時小学生であった母を担任教師が養女として引き取り、東京の大学に進学させてくれた訳だがその養父の不慮の死により已む無く退学帰省後に教職員として独身生活を楽しむに至ったのだが実母のたっての期待に応えるべく父との縁談を承諾したのであった。
無学の実母には貧困生活を娘達を他人の家に女中奉公に出して、(母の場合も奉公に出されたとの解釈らしい)その後に結婚生活に入るというのが極当たり前で自然の人生と信じていたので独身生活を謳歌する女性というものは『哀れな不孝者』なのであったのだ。
その私の祖母の死の床での最後の言葉は何あろう母を耳元に呼び寄せての許しの懇願であった。
「お前にはすまん悪い事をしたねェ。無理に嫁に出さなくともえがったんだァ。死にたいくらい苦しんだお前を何度も追い返したなァ。嫁になどいかねで好きに本ば読ませてやればよかったのによォ、、、。すまんかったねェ、、、。すまんかったねェ。」というものだった。
高校生だった私もその場に居合わせてその『すまんかったねェ、、』を耳にした。
この祖母の言葉にも解るように、母の結婚生活は苦悩に満ち々々たものだったらしい。
戦前、戦後のゴタゴタでもあり何度も病魔に襲われたことも、当時の医療法は現在とはかなり違うものであったことも、嫁姑問題にも更なる不孝を加えたに違いない。
私と二人の兄は数年間を親類に預けられ数年間をそれぞれバラバラに生活している。たまに家族一緒に暮していた時も当時まだそれが麻薬として禁じられてはおらず痛み止めとして母が医者から受けていたヒロポンの注射痕が母の両腕を黒々としたアザの中に数多く赤い斑点となっていたのを記憶している。
当時はX線も体にはそうも害があるとはされずにいて麻薬中毒禁断症状が何かの病気なのだろうと病状原因を突き止める意義に於いて3日にあげずレントゲンを撮り続けられたのであった。
その長年の間に結核、腸ねん転、腸癒着、乳腫瘍等に侵され、合わせるに癌細胞が体の大半に凄んでいた。 人生中年の母の体はガタガタで蔵という蔵が悲鳴を上げていたに違いない。
なんとも恐ろしいほどの病歴である。
この病魔の巣の様な母が何故その臨終の床としてお坊さんが呼ばれ親族を招集したその度にあの世に行くのを拒む事ができたのかは後に私にそのコツとやらを話してくれた。
「いつも赤ん坊のアンタをそれは本当に可愛がってくれた二十歳にも成らずに若くして病死したアンタの叔父さんがね子供のあの頃の赤ん坊のアンタと同じような年頃の姿で私の背中におんぶしている夢を見るのよ。私の背中からそれはしつこいほど私にせがむの。『そちらはあまり明かりが強いからあちらの暗い方に行って眠りたいよォ。暗い方に行こうよ、ねェ。眠いよォ。』それで私は云うのよ。『アンタはお眠り。私は暗くない方が歩きやすいから』とね。するとね、眼が覚めてね、病院のベットの周りで人が私の顔色を覗いていて『気がついたよ、大丈夫だ』って云ってるというわけ。いつも同じ夢でアンタの叔父さんが私を迎えに来るんだね。でも向こうが暗くてこちらが明るいというのは、ちょっと違うような気がするけれど、、。」
そのような事態が6回ほどもあったらしい。3度目からはお坊さんを呼ばなくなったのだそうだ。
そんな母が65才の癌センター入院時に何故その時は背中の弟の言葉通りに暗い道を選んだのかは抗癌剤の成せる副作用のものだったものかは定かではないが「そうだね、もう私も向こうで眠りたいよ」と応えたものだったのかもしれない。母は不眠症で長年苦しんでもいたので、その時はこれでぐっすり眠りにつけただろうかというのが私の思いでもあった。
他界前日には『東京から戻ったラッセル車』と母を誇りに思った叔母が見舞っており二人で暫し昔話などを日頃は無口な母にしては何時に無く珍しく随分と話したのだそうだ。
姉妹とで想い出を話し切り、後は幼い時の弟を背中に眠りの旅に身をまかせたのだろう。

私が生涯に於いて母と一緒に暮したのは通算10年間にも満たない。
どこにも共通点が無いと思ってきたのだが今は時代や生活背景が違うとはいえやはり私の中には確かに母から受け継いだ何かが心の底深く数多く存在しているのに気付くこの頃なのである。
そして加えて思うに、私がこの世を去った後には今私が母を回顧して想うように誰かが私の存在を懐かしんで話したりするのだろうか。
私自身も今は生前母が云って希望していた様に『人から懐かしがられもせず、願わくばひっそりとこの世から去り、忘れ去られる人生』をそのまま実践しているにすぎないのだと思う。
そして私という人間の存在が人々の記憶にも残らないその時は塵や土となってまた何時か自然に花を咲かせたりするのかもしれない。
生前の母は花をこよなく愛する人であった。
去年偶然に眼にする機会に恵まれた100年前の種が砂漠に大パノラマを展開した時の様な光景の中の一粒が自分であるかもしれないと想うとこの人生の粒も無意味なものではないかもしれないと過去に私が母にした質問を自分に当ててこれが多分生きるという事なのかもしれないと母の言葉を改めて考え、そして思った。もしかしたら母は人知れず100年目に咲いた花の種になったのかもしれない。
誰も知る人のいない世界にまた人知れず咲いて、ひっそり生きて静かに去っていく。
また種となり土深く、埋まって忘れ去られる。
しかし、その繰り返しは数百年後にはまた花を咲かせるのだろうか。
土の上に浮上し、またひっそりと咲くのだろうか。
そして私も願わくば人や世から忘れ去られもひっそりと、、、。
繰り返し、繰り返し、、、。


注;2005年春の豪雨がカリフォルニア州・ネバタ州のデスヴァリー(死の渓谷)に植物史に驚きの100年前に地に埋まった種が一斉に花を咲かせるというミラクルを起こし観光客や植物学者達を喜ばせました。(写真参照)
その偶然に遭遇する機会を持てた私はこれ等の花々が再び咲くのは100~200年後という報道ニュースに次にこれ等を見る人とはどのような人なのだろうかなどと考えました。

4/17/2006

軽くお喋り3



感のお話 視

9才と11才が外で忍者ごっこして走り回っている光景が面白い。
物の流行りというのが違う日本の子供達のこの年齢だともう忍者ごっこなどしないのかもしれないしそれに小5ともなると多分殆どの子供は自宅学習にも忙しいのかもしれない。
忍者ごっこを興じて日永遊びまくっている家の子等はその点かなり精神的には幼いのだろう。
しかし元気に走り回って、学業は学業、学校でしっかり学べばそれでいいと私は思っている。
走りながら言っている言葉をよく聴くでも無しに聞いていると使っている日本語がこれがなかなか笑えるものなのです。
空手の真似をしながら「ァチョー」と言ったり、日本語で「タスケテ~」とか「ザンネンネ~ェ」、はたまた「オヤ~ッ?」と言ったりする。
私は子供達に日本語を教えていないのでこれは日本のアニメのTV番組を見ていて覚えたらしい。
弱気な忍者が「助けて~」とか云うのが漫画チックというかアメリカンなのだ。
一昔前までのこちらの日本人の一般的なイメージは眼鏡をかけ、カメラをぶらさげ、何故か殆どが出っ歯というのでしたが、最近は日本のアニメの浸透で目の大きなロックンロールガールズかセーラームーンタイプがメインのようです。

前置きが長くなりましたが眼の話をしようと思ったのです。
視力というのは後天的遺伝ではないのでしょう我が家は4代全員が弱視です。
たった一人眼鏡を必要としていなかった上記9才の小さい弱気忍者も先月遂に守(学校)より視力低下により治療後の報告書を提出せよとのお達しが来て、ついに眼鏡を購入するはめに、、。
「あのね、鷹のように鋭い視力と目にも留まらぬ機敏さが無ければ良い忍者にはなれないのだよ」と言う私に指を2本立ててドロンと消えるポーズをして見せた当のチビ忍者は「ほらっ、今パッと一瞬消えたのがグランマには見えなかったでしょう。凄い早業だったからね。」と澄ましたのでした。

4/15/2006

軽くお喋り2


感のお話1 聴

感のお話をしたいと思います。
感といっても色々あるではないか、心情なのか、スピリットの事なのか、どうなんだとおっしゃる貴方とそれらをぜ~んぶひっくるめてのお話でも、、。
まずは聴、視、臭、味、触の5感の方から先に。

私は音楽、快い音色、人の声、自然の音などを聞くのが好きで音に対する特別な思い入れがあると云っても過言ではありません。(陰の声-しかし、アナタは何にでも特別の思い入れがあるではないですか。単に理屈っぽい大袈裟人間なのじゃないの。そういうのをドラマクウィーンというのです。)

海も泳げるような川も無い山間の町に生まれ育ちました。
川が無いわけではなく家の裏にはペンケオタウシナイと云う水の流れは町を貫き流れてその先の大きな空知川に合流し鱒や鮭を泳がせるのです。
しかしその家の直ぐ側の川は当時は栄えていた三井・住友炭鉱が洗い流す石炭の沈殿物によりコーヒー色に染めており、それもかなりのブラックコーヒーと云った態でおよそ魚などが住みつく場所でもなく、町には当時たった一つの市営プールは管理不行き届きで雨水の溜め池のような状態であり、水泳の機会がそうもありませんでしたので私が幼い年齢にしては稀な鼓膜難聴になったのは水が原因ではないのです。
鼓膜内の気圧薄により自分の心臓の音がコトン、コトンと常に右耳に聞こえるようになり外からの音が漠然と形を成さなくなり雑音化してきたのでした。
当時の医療技術が優れていない田舎町の病院医者は私が「コンコンと耳鳴りがします」と云ったのを「それは多分狐にでも取り付かれたのだろうさ」と看護婦と大笑いしたもので、幼心に「医者が患者の病状を冗談にして笑って良い筈がない」と立腹した記憶があります。
今でもそれが何が原因の難聴なのか不明のまま1年間ほどに渡っての怪しげなバイブレーターで耳の中に空気振動を与える治療が成され、それが効いたわけでは無いと今の私は確信するところですが、成長とともにその心臓音反響は無くなったのでした。
以来音に対する私の感覚はより神経を寄せる対象となったのですが、依然私にとっての音は感覚で捉えるものであり、時にはその音に色や形すら在る様な錯覚はずっと続いているのです。

ある年に勤務先の事務所内で書類に眼を通していた時後方から私の精神安定ゾーン波調そのものといった声音がしているのに気付いた私は暫し背中でその声音を受けてじっとして聴き入った事があります。
その青年の言葉や話に興味はまるで無いのにも拘らず、じっとその彼の声音に耳を傾けている私が異様な行動と思われたのかもしれません。
私自身に話しかけられた時ですら私はその言葉内容を聴いているのでは無いためにじっとその彼の口元から波動が形か色に成るかのような錯覚に囚われては「え、今何と言ったのですか」と質問をしてはその内容を再確認する始末に、これは私の語学不足の為なのだと誤解されたものでした。

このような私の言動は単に「声フェチ人間」に過ぎないのではとお思いでしょう。そうか、そうなのかもしれないなどと考えないでもありません。
聴感覚が自分の精神安定ゾーンに影響するなどとは自分でも驚きとして、全ての物事の好き嫌いはこのように自らが理解し得ないところに発しているのかも知れないということでしょうか。
日頃から私は電話などの会話波調を巧く耳に捕らえることに不得手なのですが昨年の春などには少し風邪気味の状態から内耳炎症を起こしたものか右耳に異常をきたし2ヶ月間以上ものVertigo(バーディゴは眼が回るような平均バランス感覚不安定)を伴う難聴に苦しめられ、その時は電話などの波調は私の内耳には届く事なくまるで反射して抜け返った様な感覚でした。

そのような時として表れる難聴状態を抱えていて「音楽好き」というのはおかしいではないかとお思いの方もあろうかと。確かに、音を捉える事やその受ける感覚は他の人達とは違っているのかも知れません。
しかし、私はそれだからこそ音を感覚として体で捉え、精神で捕らえて、より音を楽しんでいるのかもしれません。
それは音楽を愛し、造り出すことが出来る人への大いなる尊敬の念に繋がり、私と言う人間の根源に元ずくものでもあるのです。
私の聴と云う感覚をお話しするに至り、なんだか仰々しく退屈な理屈を散々捏ねた感じになりました事お許し願いたいと最後に記しておきましょう。(陰の声-ホラね。やはりドラマクウィーンなんだからアナタは。)

4/09/2006

軽くお喋り


あらま~っ!
何たるあらま~っ!のお話です。
Donが携帯を何処かに紛失してしまいました。ポケットから転げ落ちたのかと思いレンタルカーの中を隈なく探したのだが見当たらず、はたと思いつくに、ここからがそのあらま~っ!なのですけれど、、、。
有料ハイウェイからインターチェンジに入るところの小銭受けに何セントかを数えるのも薄暗くてはいたずらに時間の浪費とばかりに、ポケットに手を入れて小銭をありったけつかみ取りその箱受け口に投げ込んだのだそうです。
え~っ、一緒に投げ入れたかもってェ?
しかし携帯の大きさと重みがいくら値上げされた有料道路とは云え、その数枚の小銭の感覚とはまるで違うのでしょう?なのに小銭と一緒くたに投げ入れちゃったのォ?あらま~っ!!

あらま~っ!
何たるあらま~っ!のお話です。
最近新入りのダウェイン君、なるべ~く仕事を与えられないように隠れたりの手抜き作業が目立って来ましたですよ。
私は6時間勤務なので整理整頓を4時間で店半分を済ませ(あとの店半分はパートナー又は主任がやる手立てなのだが)、あとの残る2時間で特別設定アレンジや清掃などの見返しをしたりするのです。
接客の合間ですから途切れ途切れの手間隙がかかりますし、きっちり棚を並び替えた後の小さな子供の数分のいたずらでまたやり直しもせねばらない事もあります。しかしダウェイン君曰く「一度一通りやったから、2度やるなんてヤダネ。給料は一日分一回の仕事分だしさ」(でも、その一度目もちゃんとしなかったでしょう、あなた。)で、やる振りだけをして私に云う。「これ、明日にとっておく。明日やるからいいよ」(え~、そういう問題かなァ)
先日3週間に渡り主任Cさんが支店長にお叱りを受けたらしい。
「店の半分が明らかな違いの不整頓さではないか、チームワークはどうなったのかな」と。
そこで、私に彼の仕事の見直しとヘルプの要請がありました。
しかし明るく彼は、「僕、フットボールとビーチとデートで疲れててね成績も落ちちゃってさァ。だから仕事はあまり一生懸命しない事に決めたんだ!最近疲れがひどくなってきているから夏まではなんとかもっと良い条件の仕事探すつもりなんだァ」ですと。
そう、あくまで明るくサラリと言うのには、あらま~っ!なのです。
君ねェ、こんな調子では法律家になんて成れないよっ。
でも、政治家になれるかも?無理を通せば道理が引っ込む世界では通用するかも、ネ?

3/26/2006

いい話し 心の買い物籠 その8


たまご

1ダースのケースのうち4個も壊れていた。
黄身が箱の上部にまでついており、白身がそのケースの卵の形のくぼみの中に大半が流れている。
「これでも良いんだ。これがたった一つ棚に残っていたから。売って下さい」とラテン訛りの強い言葉でその少年は言う。
確か、壊れたのが入っていたので横に除けて処分しようと思っていたケースの卵だ。
彼ら、二人のティーンの夜分の来店に、それもかなりの遅い時間であったので、わざわざ壊れたのが入っているのでも売って欲しいと云うからには彼らがその年齢での馬鹿な悪戯に使用するものなのだろうと私は即座に考えたのであった。
夜中に出かけて行って敵対する相手やお互いの悪ふざけをし合う友人宅にトイレット・ペーパーを庭の木々や花壇にぐるぐる巻きにするティーピー(注;アメリカインデアンの家のような形にみえるところから)や車庫の戸や車に卵を投げつける等の典型的な悪さが多くの愚かな若者達の間ではよくとられているわけだからだ。
朝露に濡れ湿ったトイレット・ペーパーはちぎれてとても捕りにくくなってしまうし、それが時間が経って乾くと木々に貼り付いてしまいまた更にとりにくくなってしまうのである。卵にしても時間が経って乾いた生卵というものはこれまたゴシゴシと力を入れて掃除しなければとれないもので、車の外装などに傷が残ったりするという。
「お願いです。これを売って下さい」ともう一人のほうも言う。
「私の一存ではお売りできませんので、少々お待ち下さいね。主任に承諾を得てからでなくてはいけまん」と私。目でこれを投げつけて悪さをしては駄目じゃないかと思う気を表したつもりだった。
店内スピーカーで主任にカウンターに来てもらうアナウンスをしたのだが、生憎主任は薬局での接客に時間がかかっているようである。
幸い時間が時間だけに他に来客が店内には無く、二人は「待ちます。売ってくれるといいなァ」と明るく答え、主任が来るまであれこれとお喋りを始めた。

「卵は2個でいいんだって云ってたよね。君のお祖母ちゃんは優しいね、きっと美味しいケーキになるんだろうなァ。卵が無いって解って泣き出したのには驚いたけれど、、。僕に誕生日のケーキ造るんだって前から何度も云ってたものね。」「うん、君がさ、話した時『あの子は家族がいなくて一度も誕生日にケーキを造ってもらった事がないのは哀しいねぇ』って、『私が造って上げる』って張り切っていたんだァ。」話題は家族の愛情、友人達の思い出、そして将来での希望へと話が広がっていく。
『あァ、そういう事だったのか、、これを投げつける為ではなかったのか、、、』二人の話から察した私。
主任が来た。それが残るひとケースの卵である事を告げて中身を見せた。
主任Kは4個も壊れているのにちょっと思案気味に眺めてから、青年達を見て言う。
「う~ん、これはやはり売り物には出来ないですね。」
落胆顔の二人から目を離して、私に向かってちょっと目配せしてから小声で言った。「売る事は出来ないけれど、そこに君が廃棄用袋に入れたのをその二人が持っていくのには自分はちっとも構わないと思うよ。」

「そういう事ですので、お持ち下さい。この袋に入っているのはあちら(外を指差し)にそのまま廃棄することになりましたのでお持ち願いますか。お持ちお帰りになってご自宅で捨てていただいても結構です」と私が伝える。
事を察した二人は顔を見合わせて「あァ、ありがとうございます。良かったな、おい」とお互いに言い合っている。
その二人が店を出た後主任に聞いてみた。「何故あの青年達があの卵を悪さに使うのではないと一目で解ったのですか?」
悪さをするのに協力して無料で彼がその卵を提供するはずが無いと思っての私の質問である。
特にこの二人の青年達が白人であった事が日頃の主任Kの取った優しい行動がちょっと意外に思っての事でもあったのだ。
主任Kは自分が黒人である為に差別をされて来ているとか、警察や権力を極端に嫌っているとかの不満意見が多く私自身は自分が同情される立場にあるとは全く考えもしないのだけれど私にさえもオリエンタルとしての同情を寄せているのだった。
「私がここに来た時君の顔が二人を見てニコニコ笑っていたから悪い子供達で無い事が直ぐに解ったからね、この時間に卵を買いに来るというのは多分誰かの為なのだろうなと思ってさ。どうせ捨てなくてはならないのだったら彼らに上げるのが当然かと思ったんだ」粋に笑って見せたのであった。

誕生ケーキを孫の友人に造って上げたい一心のお祖母ちゃん、車を運転しないお祖母ちゃんが孫の帰りを待って卵を買いに出かけようにも遅くなってしまい、そのお祖母ちゃんの気持ちを思って街中の夜営業しているお店に卵を買いに出掛けた二人の青年達、最後に残っていたケースの数個壊れてしまっているのを粋な計らいで提供した主任K、、、この全員が卵をめぐって人を思いやる行動をとった今夜は素敵な夜だったと私は独りごちたのは云うまでも無い。

3/22/2006

ぷん、ぷん



ぷんぷん!私は今ちょっとばかり怒っています。
夫が3年前に早い定年退職をする事で会社の危機に協力したと自負していた35年勤続したU社の彼に対する応酬にです。
退職するにあたっても当時マイアミ地区及び南アメリカ諸国責任者として会社が南アメリカ現地雇用人を全面的に解雇するのに心痛めた彼が会社との示談で彼自身の雇用契約収入をそちらに回す事でやっと部下達を守り、その代わりに僅かな手打ち保証金のようなものが下りる事になっていたのです。
その金額が彼には3万ドル程の僅かなものだったのですけれど、それが会社のアレコレの政府規則や裁判での取り決めやらで伸び伸びになっていて、やっと昨日降りてきたのですが、それがナントたった3800ドル。
色々の法律的契約料や法律家への報酬を差し引いたら3万ドルがその約10%だけが支払われたのです!
今年度から退職者への月収を10%も引いて支給となる事が決定したばかりで、これでは踏んだり、蹴ったりですね。
骨身を尽くして働いた会社が彼にこのような仕打ちをしたのはこれが初めてではないのです。
1991年には会社の要請で中東国タジキスタンが国所有の航空会社の経営をして貰いたいとあちらの会社の重役に出向、その間はU社の人間としての給料は正常に払われていたのですが、1年内で国の経営不振からその航空会社を閉鎖し、その間でのタジキスタン側からの契約金15万ドルは未払いなのです。
ネバタ州のラスベガス付近にある航空機置き場(機体墓場のような)に例のタジキスタン航空の飛行機が放置されているのですが、そこを通るたびに『あの翼は私の給料だ』と彼は笑います。
まァ、昔の事でもあり日頃はそうも考える事もないのですけれど、この僅かな手切れ金(笑)にはもう、これを怒らずしておられようかといった心境にぷん、ぷん!


ぶん、ぷん!今私はちょっとばかり怒っています。
昨日のお休みを一日ゆったり気分でいようと思ってTVの前のカウチで暫しうとうと夢見心地でいたのですが、急に悪魔の声が聞こえたような気がして目をあけたのです。
TVに写っていたのは我が米国大統領の記者会見でありました。
なに、なに、、戦争をおっぱじめたいのですとっ!世界平和の為には必要な戦いですとっ!勝つ自信がないのなら将来ある青年達を戦場にはむかわせないですとっ!どんな意見や批判も有難く拝聴し考慮していますだとっ!未熟な自分のお気に入りのスタッフでも以前の古参の知恵者には負けずに素晴らしい活躍をしていますだとっ!報道陣の批判は大いに誤解で固められたものである場合が多いので世界平和にもっとサポートする事が肝要ですとっ!
う~ん、これはちょっとではなく相当怖いですね。
この国の若者ばかりではなくてこれから多くの死者が出るのを認めろと言っているのですから。
この暗殺劇には出演参加も傍観者ともなりたくない人間はどうしろと?
微力、無知の自分の身が恨めしいのは私ばかりではないはずですよ。
泣く子と何とかには勝てないもので、この何とかとは国をコントロールする力とでもしておきましょうか。
嫌な気分ですっかり目覚めたのにぷん、ぷん!


ぷん、ぷん!私は今ちょっとばかり怒っています。
ママが今週は子供達を迎えに来ないというのです。
ちょっぴり残業をして疲れたので一日寝たいのでと言います。でも世の母親というのは雨の日も風の日も、病気の時も、疲れていても、嬉しい時も哀しい時も、子供と一緒に共に生きていくではありませんか。
増してや子供達の所から車で10分もかからない所に住んでいながら、たった一週間2日の育児すら拒否するとは何事ですか。
今まで14年間も、そして多分これからもずっとこの調子でいくと言う事はですよ、既にもうとっくに若さというありがたい恵みに薄れてきている今日この頃の私の不安はどうしてくれるというのです。
まァ、こう怒ったところで今後にも何の進展も無い事も解ってはいるのですけれどね。貴女よりネ時に婆ママは芯からつかれれているのですよ、ぷん、ぷん!


ぷん、ぷん!私は今ちょっとばかり怒っています。
お向かいの奥さんがやって来ましてね、「アヒルに餌を上げるのはよして下さい。アヒルが家の庭にも沢山来るようになって、迷惑しています。家の可愛い子犬がアヒルの糞を舐めて病気になったら貴女を訴える事になりますからね」ですと。
この方、数年前にお向かいに移ってきてからは外で遊んでいる家の子供達が煩いだとか家の外でバトントワーリングの練習をしている孫娘にチラリと嫌味なんぞ言う人なのです。
「そちらにご迷惑をおかけしていましたか。でも片足アヒルが気になりましてね。」と私。「自然に生かしてあげるのが心というものですよ。とにかく即刻止めていただけなければ町内会議にかけますから」と捨て台詞。
ごめんなさいね、アヒル達。でも目をつぶって、暫くは心を閉ざしていなければならないのですよ。
この意地悪お向かいさんと顔を合わせない様にしているのにもぷん、ぷん。

最近は私の「ぷん、ぷん」が多くなりつつありますよ。やはり若い時とは自分の受け入れ態度もかなり違った「ぷん、ぷん」ではありますけれど。

3/11/2006

言葉の学習と責任


Watch your thoughts, and they become your words;
思考に要注意、それらが貴方の言葉になるから
Watch your words, and they become your actions;
言葉に要注意、それらが貴方の行動になるから
Watch your actions, and they become your habits;
行動に要注意、それらが貴方の習慣になるから
Watch your habits, and they become your characters;
習慣に要注意、それらが貴方の個性となるから
Watch your character for it becomes your destiny!
個性に要注意、それは貴方の運命と成るのだから

この標語は小3の孫娘のクラスで考え作られたものである。
もう5年も前の事なので当人はこのようなものを作った事すらすっかり忘れているのだが、私はこの文を書き留めて時折取り出しては眺め読んでいる。
8才児達のブレーンストームがこのようなものを作り上げたのがまず私には驚異であったのと、その内容も万人一般にも充分、いやそれよりももっと確かに共通する事として巧く表現されているのが私の心を動かしたものであるからなのだ。
しかし、純で無垢な心をこのように表現した彼らも5年後の今はティーンの独特な性格をもって排他的且つ反抗的成長期でもあり、今この標語を掲げると『だから何だって言うの』といった反応なのだろう。
成長も時には心が伴わないのが当然と云えば当然であり、そしてたったその5年間の成長の生活体験によってはこの様な標語内容を思い出すどころか全面否定の人生になるのかも知れないと思うと、家庭生活や学校教育などの大人の責任というのが如何に難問としてそこに横たわっているのだろうと暫し考えるのが常の私なのである。

もう十数年も昔になるが、言葉の責任という事を思い起こすエピソードが今も私の心の奥に仕舞われている。
当時私は日系企業関連の銀行で派遣駐在日本人の下で秘書をしていた。
日系会社の上部役員というのは日本からの駐在派遣員は2~4年間というのが其の頃の常識であったので、我々が日本人社会とアメリカ人社会の通訳的存在であったのだった。
営業サーヴィス窓口行員は日本語を解さない白人が数名のみだったので、本行の指示もあって日英両語を解するクラーク募集となった時の事である。
支店長が日本本行へ出張中であった為、次長である上司がある筋からの紹介で面接に訪れた女性の対応をした。
「じゃあ、連絡下さいね。待ってますから」と言って、その若い美しい日本女性が30分間程の面接後の足取りも軽く去って行ったのだが、日頃には優秀沈着なこの上司である次長が部下の私に面談内容など決して話す事は無いのだという通常予想外に、『同じ日本人として、どう思うか』式の、余程腹に一物を据え兼ねたかの面持と口調で話したのであった。
なにせもう何年も前の話なので、その時の状態を一字一句を正確に私も覚えていないのかもしれないが、多分このような内容であったと記憶する。

彼女、Aさんとしておこう、が面談室に入るなり開口一番に言ったのは「支店長は慶応ボーイなんですってね。私の昔のボーイフレンドと同期らしいんです。」
そしてAさんの面接はこの支店長との仲間意識的言葉によって万事が一時始終のようになされたのだそうだ。
「あ、そう、次長の貴方も慶応ボーイなんですかァ。海外駐在員って多いですよね慶応ボーイ。で、次に多いのは日大だったりして、、。なんせ日大卒っての多くありません?今の旦那はアメリカ人なんですよ。だから慶応ボーイじゃないですけどね。え、タイプですか?いいですね慶応ボーイ。あ、そのタイプじゃなくて、タイピングのほうね。そう言って下さいよ。出来ますよ私。
希望給金ですかァ?そりゃ多いのがいいにきまってますよ。まァ他の日本人女性並み(多分私の事らしい)にはしておいてね。」といった風であったという。
Aは面接を行ったその若き次長の慇懃無礼な言語が彼女への謙譲・尊敬語と解したものか、彼を年下の者と踏んでの会話だったのだろうが、求職面談であるというその立場の言葉使いにはまるで無頓着な言動をしてしまったのだ。又は、彼女の人生生活体験の中ではそういった言動学習をせずにその立場を迎えてしまったのかも知れない。
これが全て英語での面接であったのなら謙譲・尊敬語などをさほど気にする事も無く普通の生活会話としてのその事態はまた違っていたのだろう。
彼女Aがその銀行のサーヴィス窓口席に座ることはなかったのは当然の成り行きであった。

無論私自身にも大いに言えることなのだが、海外に移住する人間の言動、思考というのは母国を一歩出た時に一旦それを終了し、母国学習性が止まってしまうようだ。
その後の異国生活を通しての母国の学習というものはかなりの遅れをとるか、生活を通しての体験学習進歩では無い為に時には、上記のAさん然り、そのズレにさえ気が付かない場合が往々にしてある。
「敬語や常識接客用語を知らなすぎる」と上司がAさんを指摘して立腹したように、周りからやそしてその生活習慣からもビジネス対応と云う事を学ばずして来てしまった中途半端の学習というものが障害となって横たわることにもなる。
言語はその個人の表現と思考伝達方としては生活に不可欠な物であり、言葉の学習、行動、責任というものを大事なものとして思うたび、日英両語共に半端な学習しか得られずに人生の半ばを過ぎてしまった自身に時折ジレンマを感ずるのである。

3/09/2006

バッグ・レディー



バッグ・レディーとは袋などに自分の所有物の全てを入れて一定の住居を持たず放浪する女性の事であり、いわゆるホームレスの女性を指してそう呼ぶのである。
過去に住んだことのあるハワイやカリフォルニアでは気候が温暖である為にホームレスの人達には住みやすい所として上げられているという。
報道番組で見た事がある。ある州がホームレス一掃を試み、ホームレスに生活援助や施設の提供するよりは州民の税金セーブの為と名打ってホームレスにバスや飛行機の一方交通旅行券を購入して住みたい州に移動してもらう作戦で州政を図ったのだそうだ。自分達の問題を他州に押しやった事態で自分達のモラルとしての身を清めたツモリでいるのがなんとも滑稽なお話ではないか。
これが常識と考える人達がいると言う事実が私には何とも異次元の世界の笑い話を聞いている感じがしたのだった。

魔女が夜空を駆け巡る時間、午前3時頃の24時間オープンのドラッグストアというものは夜更かしをして映画を見終わった人とか、5マイル程にある緊急病院から治療を終えた人の家族とか、バーが閉店時間となり踊り疲れた帰途の若者とかが少しの間のずれをもって出入りする時間帯である。
防犯用に付けている戸口ベルがカランコロ~ンと鳴り、来客が入店した事を知らせる度に店内で棚の整頓などをしている私は戸口に駆け寄る事になる。
来客に挨拶をする事で、その時間にも店内には数人の店員が待機しており、いつでも接客応対が出来る体制がある事を知らしめ、且つそのサービス精神と防犯を兼ねてのポリシーでもあるのです。
白髪の欧米人の顔姿はもしかして私がその世代と思ったより実際はもっと若いのかもしれないが、その時入店してきたのは年の頃50代の髪をきちんと結い上げた、しかし何とも場には不釣合いの黒いロングドレスに薄っぺらな簡易レインコートのいでたちの女性であった。
これでその白髪を長く下に下ろしていたのなら、その時間には、魔女の時間、ちょっと下界に下りてみた魔女といったふうかもしれない、決して間抜けな感じを与えないそのしっかりした顔立ちは美しく、ちょっと目にはどこかいい所の奥様がフラリとお店に現れたといったふうでもある。
小半時間ほどあちらの棚、こちらの棚に品々を手に取っては眺めたりしかめたりしている。「何か特別な品をお探しですか?」と私。
セールのチラシを手に「この品はどこにもみあたりませんね。どうしてかしら?」と『削りチーズ1袋2ドル99セント、2袋目は無料』の所を指差した。
「その品は午後の時点で完売してしまいました。セール期間中に品が入りませんでしたら今レインチェック(後日同じセール値で購入できる証明書き)をお渡ししましょうか?」
「いえ、よろしいわ。私この近くに住んでいるわけではないので、、、。」
言葉使いも丁重である。
それからオレンジジュースの小瓶と情報誌を購入、しかし店を出るわけでもなくまたあちらの棚、こちらの棚を歩き回っている。
C主任が私のところへ来て小声で「コード・ワン」と云った。
コード・ワンとは盗難注意せよとの業務用語である。
一向に去る様子の無い彼女の姿を目で追いながら整頓作業を続けてもう2時間が過ぎようとしていた。
買い物バスケットとカートを一定の場所に収めようとした時、その一角に一山の袋がミルク運搬箱を改良したらしき車籠に繋がれているのが見えた。
その周辺が何とも異様な腐敗臭を放っている。
「あ、それは私の私物なのよ。そこに置いておいてね。戸口に近付けないで欲しいの、私の全財産なのよ。盗まれでもしたら事だから」と彼女。
その言葉で彼女がドラッグストアの前芝生で時間を過ごしていたホームレスである事が解ったのであった。
道脇のベンチで横になっていたところ市の行政管理下のスプリンクラーが始動し始めたので慌ててレインコートを取り出して着たらしいが水撒きは部分地区的に3時間も及ぶわけで、徐々に移動しているうちに24時間営業のドラッグストアにたどり着いてしまったというわけだ。
レインコートにロングドレスというのは常夏の地とはいえ、やはり屋外での早春の寒さをしのぐに必要ないでたちだったのだろう。
「申し訳ありませんがカートを所定の場所に設置したいのですがお荷物をあちらの隅に移して頂けますか」
別に彼女に意地悪を言いたかった訳ではない。しかし目前の悪臭にヘキヘキしていたのも事実である。
「困ります!駄目です!戸口に近くなっては盗まれる可能性が高いじゃないですか」と彼女は頑固に頭をふるばかりだ。
ビニールバッグに透けて見える中身は新聞紙や使い古したテッシュー等が詰まっているのだが。
実際先程買って飲んだオレンジジュースの空小瓶も混じっている。沢山のゴミ袋が山に積まれていて、私の腰の高さよりあるのだ。
「そこは通路ですので、せめてもう少し端へ寄せていただけないでしょうか」と私。
このやり取りの前までは私は彼女の姿を横目で見ながら考えていたのであった。『どうしたのだろう。家出なのかしら。精神異常の気配はないし、、、何かとても哀しい事情がある人なのだろう。たった独り、、家族を捨てたか、捨てられたか、、。一応の教養も有りそうだし、身なりからして以前には何方かの奥様だったのかもしれない、、。私が家事も家族も何もかも捨てて自由気ままに暮らしたいと今ある生活から去ると言う事を考えた時の死以外での、これが自分の姿なのだろうか、、、。』
朝6時に市営バスの始発が出るのと合わせたのか、「バスストップに行きますよ。お世話様」とやっと白々明けて来た屋外にバッグをゴロゴロと引きながら黒のロングドレス白髪のバッグレディーは去って行き、同時に私の現実には見えない独りぽっちで放浪する姿が脳裏からかすんで消えていったのである。

3/05/2006

今日を生きる


Live today

Cherish your yesterdays
Dream your tomorrows
But live your today

Tomorrow belong to those
Who fully use today

昨日と言う日々を大事にしよう
明日と言う日々を夢見よう
しかし、今日という日を生きよう

明日と言う日は今日の日を精一杯
生きた人のものなのですから
 
(フロリダの風訳)

一段落した仕事の合間に整理する傍ら、棚から拾い上げたホールマーク社の小本の中の一文に私の目は留まり、暫しいつもの事には無く手を休め、この文の意味を自分の生活に照らし合わせ考え込んだ私でした。

昨夜のドラッグストアでの私の接客一番前列にいた懐かしい顔に思わず、『どの客も同じに大事』ポリシーをちょっとばかり外して個人的感情を前面評価してしまいました。
この中年男性は以前2年も前に夜勤パートナーとして一緒に働いていた友人Dのご主人でした。私のDとの交友は他のサイトでも記述した事があり(注:ブログ「風が見える時」2005年8月11日記エピソード”いい話し-心の買い物籠の2と4”)私にとっては何らかの心の繋がりの様なものを感じていた友人でもありました。
このご主人自身が数年間の陸軍服役の際に中東前線中の薬品武力による被害で入退院を繰り返しており、家に在住の時は癌病体の妻Dを助け、主夫として料理以外の家事と育児一切をまかなっていたのでした。
ご夫婦揃って熱心な宗教家であり、又PTAなどの活動にもとても活発な参加をしていて、見る人にはこの二人が共に病身であるなどとは到底考えられぬほどの明るさで家族としての絆も強く、あらゆる面でも毎日を健康人の何倍もの活動と精神をもって生きている人達だったのです。
彼女が癌再発によって勤務を退けた後、自宅治療になったと元気な顔で現れた事が2度ほどあり、「信号の合間には車の中に座って休んでもいいと言ってくれているので今でもクロスガード続けてるのよ~」といつもの明るさで言った彼女でした。
当時のドラッグストアでの夜勤中もクロスガード(緑のオバサン)をもやっていた彼女、「お小使い稼ぎながら子供達とも接する事が出来るなんて、楽しくて辞められないの」と言っていたものです。
「私はね、世界一素晴らしいママに育てられたのよ。私もママが私を育てたように自分の二人の娘を同じように明るく育てたいと思っているので、もし私が病気に負ける時が来たとしても、それは神様が『貴女の役目は充分果たされましたよ、今はお休みしなさい』との告知なのだと思うようにしているの。」とも言って、あくまでもポジティブな彼女でした。
その後私も一時期勤務を退けたので、その間も彼女に連絡を取り続けたのですが留守電に伝言を入れても連絡は無く、このご夫婦の多忙によるものか、それともどちらかが再入院となったものかと案じていました。
「彼女は本当に一生懸命戦ったのだけれど、最後はもう疲れきったようでね、静かに休ませて上げたいと私も思ったのですよ。いいんです。彼女精一杯生きたはずですから。今はあちらでも何やらあれこれ精一杯やっているのだと思う事にしましたよ。」昨年の7月中旬に神様に召されていったのだということを心の塞がる思いで聴く私に彼は言ったのでした。
列の後方客を気使うのを忘れてもっと話をしていたい、Dの思い出に浸りたいと私の心は何かを大声で叫んで泣き叫びたい衝動を抑えるのに必死でした。
しかし、その彼が私の目前を去った時、混雑している土曜日の店内のざわめきが私の記憶の中の彼女の明るい笑い声に重なって聞こえたような気がしたのでした。




追記ー夕食時にこの事を家族に話したところ14才の孫娘が意外な顔をして私に言いました。「昨年の学校新聞にPTA役員死亡記事に載っていたから私はもう知っていたけれど、時々グランドマが彼女に連絡取ったりしているのが何なのかと不思議に思っていたのよ。」
同時に目配せをした気配があり、家族は私がその新聞記事に目を留めずにいた事で私の哀しみを増やさないようにと話題にするのを避けていたようです。

3/03/2006


毎朝の登校前に11才の孫シャーンの寝癖髪を抑えるブラッシングをしながら、真っ直ぐの黒髪ながらその長さに関係なくあちらこちらに捩れてしまう彼の髪は多分にして私からの遺伝子に違いないと密かに思うのである。
先日の父のバリカンについて記述した際にもそう思ったのだが、いつかは髪について書かねばならないような気になっていた。

父が「禿頭教頭」と頭(かしら)トンチ四文字熟語語呂合わせの格好にもなった地元では知る人ぞ知るといった風体でもあったので、髪に関しての話には、私の周りにはいつも離れずに寄り添って生活していたといっても過言ではない。
遺伝子を考える時、私の二人の兄達がこのトンチ熟語の父によるものが多いだろうと思われた方もいるだろうが、そこは神様もお見通しだったものか、彼らも私も母の遺伝子を受けたのだろう。3人兄妹が3人とも加齢や生活上での手加え(健康を保つための薬品使用など)に寄る抜け毛は免れないとしても、注してその髪の量の保持では異常が無かった。
その私自身が遺伝子として受け継いだ母の髪であるが、これまた日本人が大陸人間として遺伝子が受け継がれて来たというのを立証するような茶褐色で真っ直ぐの様でありながら実は捩れているといった髪なのだった。
もし専門科学者がこれを云うのなら、「髪の断片をマイクロスコープで見ますと、ほら、楕円形ですので、真っ直ぐ伸びているようで其の過程で渦のように捲くれて行くのです」といった感じだ。
母がその昔、多分今の私の孫シャーンの年頃の事かと察するのですが、着物姿で三つ編みといった出で立ちで登校する際には一番上の姉に髪を結ってもらうのが当時は今のようなブラシではなく、木の櫛であったために大変な毎朝であったと後日私に話してくれたものである。
「ぽやぽやの猫毛の上に櫛が通らない捩れの非国民の髪ではないか!ちゃんと伸ばしてきっちり結わないことには恥ずかしくて叶わない!」と水やら唾やらで伸ばし伸ばしにしては櫛でパチパチと頭を叩かれたのだそうだ。(注;この伯母は貧しい家族を支え、奉公勤めにも出るという当時では良くあるしっかり者の女性であり、後年には9人もの自分の子供を女手一つで育て上げ、更に病弱な私の母の代わりに私をも受け入れて世話をしてくれるという素晴らしい日本女性なのであるが、其のお話は後ということで)
私が中学の頃だったか、「アメリカで東洋人のように真っ直ぐ長い髪がテーンの間でもてはやされており、髪にアイロンをかけて伸ばす女の子もいる」という情報を聞きつけた私は早速自分もやってみようと試みたのであった。
何せ当時は今のように‘サラサラ・つやつやシャンプー’なる物など無い時代であったので、私の真っ直ぐに見えても決してそうではない『隠れ捩れ髪』を何とかしたいと考えての事であった。
アイロン台に髪を伸ばし上目使いでアイロン掛けをしている私を見て母が「どれ、やってあげる」とアイロンをかけてくれたのを思い出した。
しかし、その時のアイロン掛けが私の髪を真っ直ぐに、サラリ、ツヤツヤにしてくれた記憶は無く、その時の母の半ば諦めた「やはり、生まれつきの髪はこれはこれで良い事にしなさい」と云う言葉が耳に残っている。

冒頭の話に戻るが、父親が日本人とアメリカ人の混血、母親が中国人を祖母に持つフィリピン人とあって我が家の孫3人はそれぞれが複雑な遺伝子を受け継いでおり、その性格、体質にも複雑に影響を及ぼしている。
上の二人が生まれて一才児になっても丸坊主のようでなかなか髪が生えてこないでいたのに対し、一番下のデビッドがまるで髪の毛のみに栄養が行っていたのかと思われる程の黒々ふさふさの髪を持って産まれ出てきたのには皆が驚いた。
孫クリスティーナは体質的にはアメリカ人の私の夫に一番似ており、髪は色こそ茶褐色であるが彼女のママと同じ美しい頑固なまでに真っ直ぐ伸びている。
実はこの真っ直ぐな美しい髪も彼女の一つの問題点としてバトントワーリング界での苦労の種となっているのも確かな事実である。
バトントワーリング界はスケート界から遅れを取りオリンピック・スポーツに入れないのは色々な理由があるが、それは別問題として、このスポーツはモデル歩行もその大事な点数があるのに知られるように会話術、マナー、容姿が考慮される美人コンテスト的要素も含み、その衣装もさながら、化粧や髪型が大事なポイントとなるのである。
そしてその採点ジャッジが今もその髪型が(ドレスもそうですが)「風と共に去りぬ」のスカーレットのような、又は1960年代の‘髪の中に顔があります’的カーリー且つパッフィというか、昔のバービー人形といった髪型の信心者達である為に、東洋人の良さを引き合いに出してみたところでそれを受け入れられる時には来ていないのだった。
昨年の全米大会にマナーとモデルコーチがクリスティーナの美しい自然なツヤツヤ髪がジャッジにも見てもらう時が来たと言ってカールしないで出場させたのだったが、結果はやはり23位と無残なものであった。
さて、今年の彼女の髪型はどうしたものか、、と考える私の髪は今は染めるにも追いつかない位に白いものが出てくる毎日なのである。

2/26/2006

手動バリカン

[バリカンの語源は、言語学者の金田一京助氏が苦労して発見したことは、有名な話になっている。金田一氏が三省堂にいた頃、「日本外来語辞典」の編集をすることになり、三年も費やしあらゆる文献を調べたが、バリカンの語源だけが解らなかった。床屋に行った際、店主にあれこれ聞いても解らなかったが、「バリカンの機械か箱に、バリカンとは書いてないものか?」と言って手にしたところ、「Barriquand et Marre」の刻印を見つけて、刃の製作所の名前が勘違いされ、機械の名前として広まったことを発見した。](語源由来辞典サイトより)

押入れのかたずけをしていると亡父の遺品の中に未使用の手動バリカンがまだ箱にも手付けずのまま出てきた。
1993年に父が私の住むフロリダに身を寄せる決心をした際に、何故そうしたのかは定かではないのだが、父はあちらこちらをバリカンを捜し求め、やっとの調べで職人を捜し当てて特注したものである。
その昔は理髪は男、子供は床屋に出掛けないまでも我が家の兄達がそうであったように、父親がバリカンでくりくり頭にしてしまったもので、頭を虎刈りにされたと泣きべそで登校を渋ったりしては更に頭にゲンコツを受けたりしたものであった。

定年退職前の数年は校長を勤め上げたのだが35年間の教職生活に於いて、父は長年を故郷の地で”禿教頭”と愛称されていた事でも解る様に、髪の手入れは頭の耳横から下部のみの狭い範囲であったのでその長年を床屋に行くでもなく、自宅の畳の上に新聞紙を広げて前かがみになりバリカンで自分の頭を刈るのが日常生活であったのだった。
しかし、移住渡米を決意したその時には既に軽い老人痴呆アルツハイマー症状が表面化してきていて、自分の頭を理髪するのは無理な状態になっていた。
しかもそのやっと見つけたというバリカン職人は当時でさえ日本に残るたった二人の職人さんという話で(多分世界に於いてさえ、もうこの方達だけなほど希少な存在の職人さんなのだが)しっかりと、精密に出来た頑丈そのものといったバリカンは重く、固く、とうてい父の手で簡単に使用する事などとは適わないものであった為、持ち込まれたそのままの状態で仕舞い置かれていたのだった。

今から約15年も前に大枚1万円もしたこのバリカンは手に取ると私の手にもずっしりと重く、確かな職人芸術作品といった風で、眺めるに文化風物博物館の陳列品にも 成ろうかというほどの風格さえある。
その銀色メタルの物体を恐る々々私の肩越しに覗き込んだ8才の孫のデイビッドが「この爪はどのロボットのものなの?本体はどこなのさ?」と訊くのが可笑しい。
彼に手動バリカンの説明をしながら、私が亡き後にこのバリカンが押入れの中から出てきた時には「いったい、これは何なの?」とディビッドの子供か孫かが訊くのだろうなァと思ったのだった。

2/12/2006

いい話し 心の買い物籠 その7


電話機


近くの商店まで走って行って緊急を告げるための電話を借りるといった時代を知っている私には今や各自に一台、各部屋にもバスルームや屋外にさえ取り付けられているといった昨今の科学の進歩には只々感服させられます。
その昔は電話電通というのは公共のシステムを通してのものでしたから今のように各種会社が競ってその形や色等での販売品を選ぶ事もなかったように記憶しています。

「ねぇ、貴女。貴女でしたよね。私の事覚えてませんか。ほら、ここで思いもよらずに電話機を買った時、貴女がこれできっと何かニュースが聞けるかも知れませんよと言った事がありますよね。」
白髪のこのご婦人は強い南米系アクセントの英語で私の顔を見るなり旧知の友にでも会った風に懐かしげに話しかけてこられました。
最初はよく聞き取れなかった言葉も「電話」という言葉が出たのでその時の事を容易に思い出すことができました。

その時は確か午前3時頃というその時間にはあまり見ることがない年齢層のご婦人だったので、その少し青ざめた顔色からも私は多分救急病院の帰りに薬局を訪れたお客ではないのだろうかと考えたのでした。
「私眠れないのです。心配で、不安で、、、。息子が行方不明なのですよ。友達の家に遊びに行くと言って半年前に家を出たきりなのです。でもその友人の家には2ヶ月も居なかったはずなのですから、もう行方知れずになって4ヶ月がたったわけです。それで、あちらこちら当てを探してはいるのですけれどね。成人が行方不明になっても警察はあまり何も出来ないようでね、手懸り無しなんですって。
眠れないので、この様な時間にベットを起き出して何かしなければ、と思いつつ何をしたら良いのかもわからなくって、結局ふらりとここに買い物にやって来たというわけなの。」と、聞きもしないのに余程誰か彼かと話したかったもなのか、強いアクセントでまくし立てる彼女に哀れを感じた私でした。
カートの中にはパン、飲み物の他に電話機が一台入っていました。
「あのね、この電話機、ホラ、あそこに山に積んであるやつの一つなの。そこを通ったときに床が揺れたのかしら、ポンとね一個が私のカートに転がり落ちたのよ。触りもしなかったのに。それでね、私と家に帰りたいのかと思ったので買うことにしたの。たった9ドル99セントの品ですものそうも大した物じゃあないのでしょうけど。本当に、ポンと勝手にカートに入ってきたのよ。驚きだったわ。」
お会計をしながら「そうでしたか、では何かこの電話機でニュースが聞けるかもしれませんね。」慰める言葉も無く在り来たりな事柄しか言えない私でした。

そのご婦人の再来店に、私はその後の息子さんの行方はどうなったものかを、個人的に立ち入ったそのような事は聞くべきか、どうしようかと少し躊躇していると、彼女の方から話し出したのでした。
「あの電話機よ。9ドル99セントのあれ。家にも他に数台の電話機があるのに、家に帰ってあれを取り付けたら翌日の夜に2回ほど鳴ったのよ。あの電話機だけが。変でしょう。やはり安物買いをするものじゃないと思って取り外ししなくっちゃと考えていたら、また鳴ったの。その時は家中の電話全部のベルが鳴ったのだったけれど、、、それが息子の居所を警察が知らせてくれたってわけ。『残念ですけれど、息子さんは他州で車の事故に巻き込まれて死亡されておられます。確認にいらっしゃいますか』って。」
作り話のような偶然があるものです。
遠くを見ているかのような優しいまなざしでその時を、息子を、想って話すご婦人に私は事の次第に耳を傾ける他は返す言葉もありません。
消息不明の半年は不安と心配で憔悴しきったそのご婦人はその電話連絡を受けると何故かそれまでの悲しみとは違った「ああ、息子が帰ってきた」と安堵さえ覚えたのだそうです。
それでその9ドル99セントで購入の電話機は今でもそのまま取り外ししないでおいてあるのだそうです。
そしてそれがリン、リンとなる度に故障機であるかも知れないと考えながらも息子が母親に帰宅している事を知らせているような思いで心が慰められるのだそうです。
子が母親を想い、母親が子を想う。リンリンと電話機から音がなるのです。

「ハロー、ママ。僕は大丈夫だからね。元気で暮らしてよ。」
「ええ、私も大丈夫。ほらね、元気よ。」

2/01/2006

ミシマ君が来たよ



ミシマ君が来たよ。
チーコちゃんちから。
箱を開けるとね、「来たよ~」って
言ったのよ。本当に。
遠くからわざわざよく来てくれました。
貴方に似てるって思ってた。
それでね、「コンピューターの側に座る」って。
貴方がね天国ではコンピューターないだろうからって、
代わりしてくれるって。
さっきねやはりチーコちゃん見てたよ。
貴方がしてたみたいにね。
「指一本でチーコちゃんが見えるね」って。
「レインボーブリッジの下は全面スクリーンなんでしょう?」って。
でもコンピューターと違うのは
そちらのスクリーンではこちらが見えても、
こちらからはそちらが見えないもの。
だからね、ミシマ君が貴方の代わりに
ここに座ってくれるんだって。
そしてお話してくれるんだって。
貴方がしていたようにね。
レインボーブリッジでまた会う日までは、
ママとお話してくれるんだって。

ミシマ君が来たよ。
チーコちゃんちから。




****Michiko Worldさん、ありがとう。
http://michiko-world.cocolog-nifty.com/michiko_world/2006/01/post_2ac9.html#comments
天使の様なお心を受け取りました。本当にありがとう。

1/29/2006

いい話し 心の買い物籠 その6





お金で買えるかな

ティーンエイジャーである事は一目瞭然のその娘は父親に伴なって来店したのですがその年齢にありがちな一際甲高い声で父親が今支払う場に現れるなり叫びました。「ダディ、ちょっと待って。私沢山欲しいもの見つけちゃったの。いいでしょう?」
支払いの手を止めた父親が娘に言いました。「OK 品物を吟味している時間はないのだから何でも手当たり次第兎に角早くしなさい。」
「ええ、じゃ、コレと、コレとそれからあ、アレもね。そうそう後でまた来るのは面倒だから2種類ずつにするわ。じゃあこの商品一列全部いいでしょう?」
高価な化粧品類をどんどんカウンターに運ぶ娘。
「ここは薬局なのだから薬以外はよいものがないのだからそれくらいにしておいて明日にでもデパートで買い物しなさい」と父親は鷹揚にに言いポケットから出した札束の一枚を私のカウンターに投げ置きました。
「ではこれまでですね。お会計いたします。」と私が笑顔で応対したのを何か違った意味に受け取ったものか「私はプリンセスには何でも高級品を与えたいのでね」と父親。そしてその娘もしてやったりと云った風の笑み満面で私にウィンクして見せた後「ダディ、だから私ダデイが大好き!愛してるわ!」と父親に言ったのでした。
このティーンはそれが思いやりと思ったのでしょう、帰る間際に振り返って言いました。「ダディがそういっても、おこずかいもらってまたこのお店にくるわよ。高級品でも同じ物はつまらないし」
この親子の買い物姿を見て人は羨ましいと思うでしょうか、それとも内心苦々しく舌打ちでもしたくなる気持ちにさせられるでしょうか。
多分この2人は後者の方を感じる人がいようなどとは考えすらも出来ない人達のように私には思えたのですが。

その後、暫くして私のカウンターにやって来たのは中年女性と3才児程の女の子でした。明らかに生活疲れを感じさせる彼女のバスケットの中には山ほどの品々が入れられていて、その前方で可愛い幼児が何やら歌を唄っていました。
それらの品々がベビー用品と玩具と文房具であり彼女の自分の為の品は無く、生活用品が見当たらないところからそれらが特別に子供達に何かを買って上げたいという彼女の気持ちが表れていました。
そのバスケットの中の品々の合計200ドルは下らないものだろうと一目して解釈した私でした。はたして数品のベビー用品と文房具の中でバインダーペーパーをスキャンしたところで「ここまでではおいくらでしょうか」と彼女が訊ねたのでそれらが52ドル84セントである事を告げると少々慌てた彼女は「申し訳在りません。そこまでで宜しいです。残りはこのままお返しします。本当に申し訳ありません」と言い、握り締めて丸くなってしまった20ドル札3枚をさし出しました。
「結構ですよ。棚に戻しておきます。お気になさいませんよう、お買い上げありがとうございました。」と私。
この間この女の子は他の幼児がするようにバスケットに残された玩具を欲しがって泣くでもなくずっと歌を唄っていてその2人が去った後もその可愛らしい声が私の耳に残っています。
めったに母親と一緒に買い物に出る事がないものかバスケットに乗せられて小一時間も店内を巡ったのがよほどたのしかったものなのでしょう。
このお店の周りは中堅以上のご家庭が多く常連客以外では夜にここを訪れるという人達とは救急病院の帰りとか(大きな病院が2つ側にあるので)、旅の途中(高速道路から2ブロックなので)の人とかなので、この親子が闇に隠れて買い物をしているのが何やら事情がありそうだと感じたのでした。
そのバスケットの品々を棚に戻しながら、彼女にはあの歌を唄っていた子の他に小学生の男の子が家で赤ん坊をベビーセットして母親の帰りを待っていたにちがいないと、そしてその子が他の玩具も更に文房具もペーパーのみしか受け取れないであろう事を思い、密かに心痛めたのでした。

上記この2組の買い物客を見て思います。これらの子供達にとっての親達に子を思う気持ちは変わりは無く、ただ、それを子供達がどの様に受けて生活を反映させて将来を造る事になるのがお金の有る無しで定められているとしたら、そう子供達が感じて将来をいきていくとしたらどうなのでしょう。
何でも無いより有るに越したことはありません。お金でもタレントでも、心でも品でも人間でも動物でも。
お金で買える知識もありますし、買えない物もありますし人はこうあるべきとか、こうすべきとか悟りあるような事を言うつもりもありません。
周りの全てをどのように受け、どのように自分と自分を創る世界に反映し、将来をおくっていけるのかが問題なのでしょうね。
人生とは、生涯とは、人間とは厄介なものです。
毎日々々が学ぶ事や考える事が満ち溢れていて自分が追いつけずにいるのですから。