3/09/2014

母とフリージャー

今日マーケットで沢山のフリージャーが売られていて、側のバラ達よりも甘い香りが漂っているその花店の一角に足を止めた。

フリージャーを想う時、その甘い香りの記憶と共に母の顔を思い浮かべる。
小学生高学年頃から高2までの6,7年間を当時炭鉱町として栄えていた北海道の歌志内市で教員をしていた両親に与えられた市政教員住宅に住んだ期間の話である。
私が誕生の頃から病弱で入退院を繰り返していた母の体調が何とか平常生活を普通に送ることが可能となり家族5人、父、母、二人の兄と私が始めて一緒に生活をする事になった時期がある。
それまでは私と兄達はそれぞれにあちらこちらの親戚宅に分けて預けられて世話をしてもらっていた。
家族がばらばらに離れて生活していたこと自体を悲しく淋しい環境に置かれていたと考えた事はない。
其々に預け育てられた家庭はどこも伯父や叔母、従兄弟達は皆それなりに優しかったし、両親や兄弟と生まれてから直ぐに離れ離れになり、年に数回顔を合わせるくらいの生活した事で、お互いが左程の親密感を得ないまま、それはそれなりに成立した家族関係であったのであろう。
もっとも私が産まれたての頃の記憶は皆無なので、後の母の話によると母が病院と自宅を行き来するその合間に、まだ5才になったばかりの幼い長男の兄が、ねんねこを引きずるほどに小さい背丈ながら赤ん坊の私を背中にくくり付けて日永お守りをしていたのだそうだ。 しかもその兄は体に少々の障害があって歩行が正常ではなかったのだ。この兄の体の障害についても母は姑にはカタワ者の家継ぎを産んだと随分責められたそうである。
自分が甘えたいさかりの子供が3才の弟と赤ん坊の私の世話をしなければならないのを見るのは情けなくて、悲しくてならなかったと母は後に私に聞かせる度に涙していたものだ。
長兄の体の障害に加え、もう今は殆どその障害は見出せないほどのものではあるが、次兄も私も足の骨に少々の異常があり、自身の体調不調を持ちながらの時々の育児と成長不足の通院はさぞかし大変であっただろうと察しられる。
 後年の医科学の進歩で知り得た我々の障害体質は父方の遺伝子に拠るものと知り、母があのように姑に責められたのはお門違いというものであったわけだが、母が何度も自殺を考えたことがあったというように、当時の姑嫁の関係はかなり厳しいのが当たり前のような時代背景もあったのだ。
そんな時期を越えて家族が全員一箇所に集った頃は強い家族愛を感じる事も無く、何となくギクシャク感が拭えない私は長い反抗期の中に鎮まっていて、時折母が涙ながらに話す辛い昔話も私にとっては、詰まるところは今の言葉で云う”思いっきりうざい”ものであったようだ。

母の病弱な体はもしかしてこの結婚生活での辛さや我慢やら、恨み、ツラミの思考とその言霊を通してもが澱になって体の内部に黒々とした沈殿層が出来ているかもしれないと、私は密かに母の人生を過去を一種に恐れも感じるようになっていたようだ。

私が母親を恋しいと感ずるようになったのは成人になって暫くしてからの事で、幼少年時には家族の繋がりというものには親身感を感ずるものだとは知らずに生きてきた。
 今思うと「何たる傲慢さ」と云わずにはおられないほどの、内向的で自意識過剰な子供であり、周りには一応の尊念は抱いてはいたが、生まれてからずっと精神的には独りで生きてきたかのように思い込んでいたところがあり、人との繋がりを求めない、心が少々、否、多分に傾き捩れ曲がっていただろう思われる節があり、家族も私の性格をとっつき難い変人の様に見ていたようだ。

母の両親は秋田地方から農業開拓者として昭和初期の雪深い北海道の田舎の地に入り細々と農地を耕し、自給自足のような貧困生活を送っていたそうだが、それでもその時代の蝦夷の地は人々はどこも似たりよったりな生活を営んでいたようである。
母の出生家は貧しい農家であったので、大正、昭和初期の貧困家庭では女の子は教育を受けるのは侭ならず、口減らしの意味も含め、高学年になると大抵が商家や庄屋宅などに女中奉公に出されたそうだが、母がそのような北国の貧困家庭の女としては珍しく高学教養を受けられたのは、当時の母の小学校担任が読書好きの彼女に学業を続けさせるために自分の養女にしたいと申し出のが幸いをしていた。
実生活的にはそれが真の意味に幸いであったのかどうかは別として、その担任教師宅の本棚に光り輝かんばかりに並んでいた沢山の文学書読みたさに、二つ返事でその申し出を受けたのだそうだ。
「女子に学問はいらない。それより子守や女中奉公に出て家族の助けになるのが女の務めだ」と云われて育ち、本を読んだりすると怒鳴りつけられるので、夜中にこっそり隠し持っていた教科書の類の本も月明かりで読んだりする文学少女の母はその独身担任教師の好意を少しの卑しさも疑わずに養女になったわけである。
実生活ではその担任教師は女中奉公にきてもらうのを条件で学費の世話をすると申し出たのだそうだが、母が東京実践女子大に在学中にその独身で若い養父が肺炎であっけなく急死を遂げ、養子縁組の意味もなく財産分けなど一切行われないまま風呂敷一個を持たされてその家を出されてしまったと云う。
学費源に窮した母はその当時の生家の次男ゆえ東京に養子に出されていた兄の力をかりてやっと何とか卒業単位を修得し、地元北海道に戻ることとなり、何をともあれ直ぐに教職についたのだそうだ。

敵国語禁止令が出る以前に大英国英語を取得した母が時折イギリス国歌をスラスラと斉唱し、口ずさんでいるのを何度か聞いた事がある。
昭和初期の東京での大学生活で英語弁論大会に選ばれて参加した事もあるそうだ。
そうして一時期は当時の女性には少なかった教員資格を生かして悠々生活を営んでいたのだが、周りからは’女先生’と呼ばれ、独身女性の自活生活を善しとしない風潮の時代であったことが彼女を強いて望んでもいなかった結婚生活に追い狭まれたというのが後の結婚生活という現状だったのだろう。

初勤務先は北海道の海辺の片田舎の小学校で、その小学校校長宅の一室が教員住宅仮部屋だったらしい。
彼女にとってはその小学校での教員生活は或る意味に独り身で自由を謳歌できたのかもしれないが、左程楽しいものではなかったらしい。
当時の女性が独りで自由に生きることに対しての周りからの風当たりが強く、そうも快適なはずもなく肩身の狭い状況であったという。
この時の母の生活で一番楽しく思えたのが校長宅前の小路に植えられた一連のフリージャーを愛でることであったらしい。
男尊女卑の真っ只中で校長や同僚、その家族らに辛くあたられてもこのフリージャーの小路に入ると嫌な事は何もかもどうでも良いことと跳ね返すエネルギーを感じずにはいられなかったのだそうだ。


その後、父と出会う機会を持つ小学校に転勤するまでの数年間はフリージャーの小路を心から愛した母は、いつか自分の家庭を持った時にはフリージャーの小路を作りたいと夢見てきたという。
父が同僚となった転勤先小学校には同僚教員に「氷点」で賞を取られ今では高名な日本作家の一人として数えられる三浦綾子女史(ご夫婦で教員をしておられたのだそうだ)がおられ、後年の母の葬儀には当女史から「お優しい方を亡くされて悲しい」との言葉を頂いた。

今母が側にいたとしたら、「私や優しい女なんかではないよ。ただあまり他の人達と関わりをもって生きた事がないので、人と付き合うのが苦手でね。」と云ったに違いない。 そしてそれは私自身の生活思考とまるで同じだ。
この母にしてこの子あり。体質の殆どが父似の私は思考的にはこの冷めているところは母によく似ていると思うのがもう他界して数年にもなるその時の母の年令をも越えた今現在の私である。

 冒頭の両親と暮らした教員住宅に母は念願のフリージャーを植えるべく父と一緒に住宅前の小路にズラリと一連の球根を植えたのだが、知ってか知らずかそれはフリージャーではなく、それに良く似たオレンジのトリトニアだった。
家からすぐ手前に建つ父が勤め、私が通った中学校までの短い小路は夏にはオレンジ色の丈の短いサクのような一連に咲く姿の花々は見事ではあったがそこに毎年咲くのが当たり前と思っていた子供の頃の私にはそう美しいものだと思ったことはなかったし、それが球根から育てられる両親のある種の想いや感慨などとはこれっぱかしも知らなかった。
これは何の花と問う私に母が一度だけ「うーん、これ、フリージャーじゃないのよねー」と云ったことがある。

数年後の父の転勤で空知地区中部の小学校の教員住宅に引っ越した頃には私は渡米した後であり、在米45年を過ぎて今の私にはその北海道空知教育委員会での学校名も土地名も判らなくなっているのだが、その後両親がその移転先の何処でもフリージャーを植えようとした事はもう無かったと思う。

 ただ当時体調が一時的に良くなっていた母は池坊の華道指導免許を取り父の部下教員のご夫人達に週2で教えていた時期がある。
「色々な花や木を使うけれど、個人の好みの花としては今でも私はやはりフリージャーが一番好き。春の花だもの」と言っていた。母の命日の二月が過ぎる今頃にやっとフリージャーが店頭に出されるだろう。 北海道の冬は長い。 

母の華道伝授名は「花水」である。 「これはカ・ス・イと読むのよ。綺麗な名でしょう。決してはなみず(鼻水)とは読まないでね。」と笑った母の顔をいつかフリージャーに重ねてみる私がここにいる。 2014年の春はもうそこに来ているだろうかとこのフロリダの空の下で遠く故郷の北国の春を想う。

8/08/2013

今日の独り言 健康日誌 8月82013


「一皮剥けたいい女」という言葉を思ったのだが、私の今の状態がその言葉とは内容が大幅に違っている。
左足裏の水胞にばかり気をとられて気がつかなかったのだが、昨日の入浴療法の時に痛みも何も感じずに右足裏が前面ペロリとナイロンソックスでもはずす様な形で剥け落ちた。
何だ?右足裏にも水胞層が出来ていたのかぁ。
道理で、歩く度に両足裏にぐにゅっとした感覚があったもの。
しかしなぁ、皮が剥け落ちるって、蛇じゃないんだから。いくら今年が蛇年で、これは縁起がいいのかも、とこじつけるのはちょっと苦しいね。
これで右足は大丈夫そうだけれど、左の方は何層にもなっているものやら、あとどれだけ剥けて若返りゃいいのかね。
体中の赤班点傷は徐々に良くなって来ているので、体がスルリと剥けることはまず考えられないが、この両掌はどうなるン?
今のところ塗り薬とローションを塗り捲っているのだけれど、これが今までにはないほどにこれらを塗っても塗ってもまるでスポンジにでも施しているかのように又は、砂に水をたらしたごときに数秒のうちに皮膚に消え去るのが不思議だ。今の私はどんだけ干からびているんだ?
脳の誤作動により、体中の水分が体内に溜まっていたストレスやら、悲しみ、苦しみやらの害毒を流し出す作戦に全力突進してしまったらしい。
今回復に向かっているという事は、脳がその誤作動を認めたからなのかしらん。
そして今後は体中が新鮮になってリニュー・リカバーと話が上手くいくのかは解らないし、何せ、私は毒の塊だったのかもしれないしね。
色んな意味で「自業自得」といったところなのだろうな。
一皮くらい剥けたって、今の私はそれくらいで「いい女、いい人、いい心」にいっぺんに業を清く戻せるとは思えない。

ま、ぼちぼち生きましょうぞ。

9/21/2011

おぞましくも悲しい出来事

常日頃から科学捜査や、犯罪心理学などに一通りの興味を持ち、最近の犯罪捜査に於けるその活躍ぶりにエールを送る一市民の私の周りで、最近起きた残虐な殺人事件について私達家族の日常生活に何らかの関連を持ったニュースとしてここに書き残したいと思います。
2010年12月に犯行が為された『フロリダ・ディビィ市バラバラ死体事件』と云われる、何ともおどろおどろしたその事件名からして恐ろしい犯罪であり、2010年末から明け翌年の当初はローカルテレビニュースや全国放映CNNまでが大々的に取り上げていたものです。
当の事件概要を最初に記しますと、2011年暮れ市の運河で釣りをしていた男性がセメント固めを錘にしたらしき人体の一部を発見、マイアミ犯罪捜査本部に通告したと云うもの。その後日フォートローダデル市周辺でも、胴体、顔を破壊された頭部、腕などがそれぞれ別の場所から発見され、それらの体の部分から身元確認と殺人犯逮捕が急がれたというものです。
ずさんな犯行計画が多くの証拠物件を残してのスピード逮捕となり、1月半ばには、その死亡被害者の友人Sが殺人及び死体遺棄罪で連行されたのでした。
この殺人事件がテレビで盛んに放映されていた当初はその事件と犯人Sが我が家には何らの関わりもないものと聞き流しており、まさかその当のSが私達家族の知人Sであるなどとは思いもよらず、名前が報道されても私はその時は声にさえ出して「あら、同姓同名の犯罪者かア。Sさんには傍迷惑な話だこと、この地区に居たなんてね」と笑ったものでした。
Sさんとはそうも深い付き合いがなかったものの、家族は10数年来の知人で、ある一時期には週3の割で顔を合わせていました。
私の知るS さんは、私の孫娘がバトンダンスグループの所属していた時の知り合いで、孫娘と同年の彼の一人娘の熱心なサポーター父親で、そしてその彼の裕福な散財ぶりからも誰もが知る人といった存在でした。
誕生会だ、発表会だ、州大会だ、お楽しみ会だ何だと、事あるごとに一人娘を溺愛し行動をするSは何時の時も自分の裕福さを豪語しており、彼の娘友達やその父兄やらの沢山の人がむらがり、私達家族の品粛をかっていたのも事実でした。
当時は幼い孫息子もバトン界でかわいがられていて、孫娘がその大きなバトングループを脱会するまでは、当たらず触らずの精神で付き合いを行使せねばならなず、孫娘もSの招待でリムジン送迎のパーティーに出かけたこともありました。
Sはいつの時も娘の行動教育に熱心でいつも一緒に行動するのが、当初30代後半から40で曰く「無職・退職者」である事に誰もが「彼の本職は?」と心の中で疑問に思っていたのでした。ボートを数台持っていてロブスター漁への貸し出しをしていて、レストランやその他の業界と親密であることから、マフィア繋がりで、密輸にも何らか関与しているのではとささやかれてはいたのでした。
容姿端麗、頭脳名先で、彼と同名の愛娘Sは10代にはブランド名のバックの中に常時数千ドルを携帯していて、欲しい物を欲しいがままに購入し、友人達を旅行やパーティーに招待するという日常でしたが、私の目にはその父親も同じくある瞬時には、セレブらしくないチグハグな部分が顔を覗かせるのが気にかかるところで、それが私が孫達をSの回りにはべらないように注意した理由の一つでもありました。
しかし、その時は別にS家族をどう思っての事でもなく、私個人思考の問題だったのかもしれませんが、孫達には富や権力にのみ従って群がるような人間になって欲しく無かったというのが私の心情でした。
人の目の前で札束をこれ見よがしにウチワにして扇ぐような生活をしていた彼ではありましたが、平常は周りの皆にも気配りをする好紳士然とした彼が何の原因であのような残虐極まりない犯罪に自ら手を染めたものかと色々な推測がなされるところとなりました。
聞くところでは逮捕時には数億もの借金まみれの生活であったといいます。そして逮捕の決め手の数多い証拠物件の一つに被害者のクレジットカードを使って娘の大学費用を支払ったり、自分の車のタイヤを購入したとあるのは、やはり一昨年の米国東海岸原油放流海水汚染事件に発端するボート使用不可状態から来る収入停止に因を発するものなのでしょうか。
保釈無し、無期懲役又は死刑の殺人罪に問われて裁判待ちの彼は今も無実を唱えていするといいますが、科学捜査による数々の証拠物件が彼の見方をしてくれるのは相当難しいと察しられる現状です。
彼の罪は罪として、彼の妻、娘Sを思うと心が痛みます。今彼女らの生活は天から地に堕ちたかの思いに違いありません。
おぞましくも、悲しい出来事です。

1/22/2011

カメニャンの朝


カメニャンの独り言

とにかく今はそういう問題じゃないのよね。
「シッ!静かに!もう少しはママを寝かしてあげようよ。ほら、新しい餌も置いてあげるから。」って下のダディに捕まえられて、二階から降ろされても、私、今は別段に空腹というわけでも、餌や水欲しいわけでも無い。
最近、ママは家にいる日と、そうでない日とがまるでゴチャゴチャの日程で、朝のうちに私を見ておいてもらわなければ、心配なんだもの。
ママのPC用椅子に寝てて、ちょこっとゲロゲロを出しちゃった事や、トイレの中でウエットシートの上でしたと思ったシーシーやプープーが、あちこちにはみ出しちゃったりしているのを、一応見ておいてもらいたいし、もうそろそろ朝起きの時間じゃないかなァ、と思って寝室ドアの前で声を掛けてみるの。
これでも、あ、もう起きてくれる頃だと一応は時間を見計らっての氣を使っているつもりなんだよ。
この時期は夜が長いのね。夕刻の今は外がもう真っ暗で、私も眠い。
それでも朝だと思ってママを起こしに行く時になっても、外はまだ暗くて、家の中も電気がついていないと真っ暗。
私の鳴き時計の針が早めにセットされているのかしらと思わないでもないけれど、体内時計の時間は確かだと思うんだ。

最初はあまり大声でなくて、ニャーニャー言って反応をみて、それからカリカリとドアをノック?するんだけれど、部屋の中に気配が感じられないと、少しお休みの間をあけて、それから、また今度はすこーしだけ声を大きくしてニャオ、ニャオと繰り返すわけ。
この、間をあけるという心使いが難しいところで、あまりせかしても駄目だし、ママの動く気配をキャッチするのも大事なの。
で、ママは必ず起きてきてくれる。「はい、はい、はい。さ、下へ行きますよ。」って。
でもね、動物年令で云えば、私よりずっと若いはずのママの動きは、最近はまるでスローになっちゃって、階段なんか私はちゃんとトコトコッと登り降り出来るのに、ママは手すりを頼りにヤットコラショッってな感じで、私は2度も3度も立ち止まって、待ってあげるの。
私は4本の手足がつかえるけれど、ママは足2本だけの歩行のせいかしら。とにかくスローモーションなの、最近の階段の上り下りは。
ママが誰か他の人が置いてくれた餌の側に、新しい餌缶を開けて皿にもってくれると私は礼を払う意味で、ちょっと舐め舐めしてみせるわけ。
そして、特別トリートのハムかターキーの固まりももらっている頃に下のダディがやって来て、私を思いっきり揺すってナゼナゼしながら必ず云うの。
「なんてオマエはブラット(わがまま)ニャンなんだ!ママをいつも起こしに行くのは如何してなんだ。甘えニャンなんだから!」とか「ファジーワジー(毛だらけ)、ニャンニャン!フラッフィー(柔らか)ニャンニャン!!」
無視されるのは、とっても嫌だけど、あんまり構われるのもちょっと問題アリって思う私は贅沢なのかな。
ママがシャーンぼくと話している内容によると、この家族は全員動物の毛や埃や何かにアレルギー症なんだって。
私も思ったんだけれど、じゃァ、私はもしかして人間や埃にもアレルギー症なのかもしれないなって。だって何時も鼻がムズ痒くて、クシャミが良く出るし、毎日ちょこっと体調が悪くてはゲーッってなっちゃうもの。
変な家族の一員のクッキーワンは蚤アレルギー症なんだって、ママが毎日皮膚をマッサージしてあげてるよ。
ビッグダディは何のアレルギーなのか私には良く解らないんだけれど、時々苦しそうにしているから、もしかして仕事でのストレスアレルギーなのかもしれないね。
朝は大抵遅くに起きてくるから、私がママを起こしに行くと、ビッグダディまでも目覚めさせてるのかもしれないと、ちょっとは気が引ける事もあるんだよ、これでね。ほんとうよ。
でもね、やはり私もママが起きてきてくれない時は、ママの具合が悪いのかと思って心配だし、ママも私がいつまでも寝込んでいると「今日はどうしたのオ~。眠いだけなのかな?ホイよ、大丈夫か~い?」って頭を撫ぜて様子を見にくるから、ここはお互いに朝の確認挨拶をするという事は大事なことなのかもね、きっと。
いつか、私もママも朝起きをしなくなるのかもね。そんな気が時々する。
ママ達の毎日の会話が何やら、それらしき健康や体調の話がよくでているようだし。
今のところは、皆の体調様子にあまり変わりが無いみたいだから、大丈夫だよ。
ね、明日の朝もママを起こしてあげようっと。
おやすみィ。Zzzzzzz

1/04/2011

2011年の私

2011年の私への教訓 べし、べからず

1、今日出来る事を明日に延ばすべからず。
2、常に鏡で不満顔をしていないかチェックすべし。
3、喜怒哀楽の精神表現とは程よく、巧くバランスすべし。
4、他人の生活行動を自分の秤での基準判断を避けるべし。
5、出来ない約束や身勝手判断を下すのは極に禁ずべし。
6、どの時、状況にも愛情、哀憐の心を忘れるべからず。
7、生きることへの感謝の念を持って毎日を暮らすべし。
8、心平穏にして順応と寛容の心を忘れずべからず。
9、過去があっての今、今があっての過去であるのを知るべし。
10、試行錯誤は当たり前、若きを育て、古きを敬うべし。
11、物事に固執せず、物欲と私欲を制すべし。
12、今あるものを大切にすべし。
13、去るもの追わず、来るものを迎えるべし。

こう書き出すと、きりがありません。
私自身に言い聞かせなければならない事は山のように毎日の生活課題として常にあるのが現状であり、そして、毎日をこれらの教訓にそっているとは言えなない暮らしぶりになるのかも知れないと思いながらも書き出している自分が少々滑稽でもあります。

視力感覚と右膝に問題を抱えているせいか、最近よく足元がおぼつかなくて、あっちでドスン、こっちでドテンと転びます。
勤務先で“津波”だの“火玉”だのとおだてられて、仕事をかたずけてきたツケが廻ってきている感でもあります。

生活苦を背負っての生活というわけではないのに、何故この年令になっても勤務を続けているのかとよく人に聞かれたりします。
それは、漠然とした説明しかならないのかもしれませんが、私が自分自身以外の周りに目を向ける機会が必要だからとしか云いようが無いのかもしれません。
私が私に課する思いと、夫が、家族が、私個人に対する思いとでは微妙に差があるのは仕方がないと思っています。
内向性格の私ですので、悟りの境地などとは程遠い暮らしぶりの中にも徐々に自分と社会生活を相合させるというのが寛容なのだと心せねばなりません。

60才を迎えた頃から「まだまだァ」と20代、30代の人達と肩を並べて、いや、それ以上にバイタリティを発揮しては自己満足ぎみのいままでの私も数年前から特にこの過去1年に至っては、周りに目をむけて感じていた以前の様な焦りや憤懣をさほどにも覚えないようにトーンダウンし出し、他人ののらりくらりの仕事ぶりにも関せずという自分になってきており、年令相応に体力と心とが平均を保つのに態勢が出来上がってきているのを感じるようになりました。
そこには弱視でコンタクトをしている私の目に角膜離脱が起きだして、目の中にに黒い影の塊を数個見るようになったこと、手の指関節の変形や、腰関節の違和感や、そして右膝の屈伸困難などが表面化するに至って、老化現象による体力の衰えを認めざる得なくなってきたという現状を、生活行動を合わせざる得ない自分を認めたことにも因しているようです。

私の様な凡人ではない、ある立派な方が-当人は自分も皆も凡人であるとは言っておりましたけれど-こんな話をしておられました。
『なにを、たかが60代の鼻垂れ小僧が先を案ずるのか。今から始める人生というものもあるし、まだ先がずっと続いている。過去は頭の中に思い浮かべて見ることが出来るけれど、未来はその場その場で自分で演出して出来るものだから、それが良い事、悪い事を含めて全部がアナタという人間を造っている事に違いは無いしそれが生きると言う事なのだからね。』

2011年の私への最大の教訓は、上記に書き出した教訓どおりに生きて行くと言う事ではなく、こうして改めて自分の存在を意識し且つ、とてつもない大きい宇宙の一環であるのを知り思うことなのでしょう。

9/25/2010

幼児を背負う夢

幼い子供を背負って家路につくというシチュエーションにおかれた夢を見た。
今となって、その子が女の子だったのか、男の子だったものかもはっきりしないのだが、それは幼い頃のクリステーナかデイビッドの感じがしていて、私自身が必死になって、半分寝ぼけでぐずるその子を「もうちょっと、もうちょっとだけの我慢よ。すぐにおんぶしてあげるからね。」と背負う紐つくりをしているのだった。
古い引き出しにあるだろうと思っていた男性用浴衣につけるへこ帯が幼児を背負うのには最適であると信じている私がその引き出しに見たものは、数本の女性用腰紐と、細いひも状の浴衣帯だけが残されていたのに失望して、タオルとブランケットを使用して自分で背負い帯を作ろうと試みたのだが、いざ子供を背に帯を回すと、とてもとても私の腰ぐるりをサポートするには短く、まるでショールのような長さにしかならない。
初めに、クリステーナがお気に入りの水色に黄色いアヒルが可愛いブランケットを3等分に切り裂き、それに幅のあるワインカラーのバスタオルをそれも3等分にしてそれぞれをつなぎあわせた。そのどちらももう古く、それらを使用して帯に利用しようとした事にあたっては、決してそれらの品がもったいないという気にはならなかったのは確かだ。
その地点、何かの会場らしく、係員の人が閉館の時間になった事を知らせに来て、そこから帰宅せねばならないという事態だった。
確かにそこへは車でいったはずなのだが、何故かそこから徒歩では1時間以上かかるかもしれない家路に子供を背負って帰ることを思い立ったのだった。
子供を安らかに背に寝せて、家路につくという事に自信があったものの、どうしてもその背負い帯が調達出来ないで、いらだっている私であった。
他の布を結びつけても、子供を背にいざ帯をまわすとどうしてもショールにしかならず、3度ほど子供を背にしてはおろし、背にしてはおろしの試行錯誤。
どうしても安心して使える背帯にはならないのであった。
結局子供を連れて家路に就くところまでに至らずに目覚めてしまった。
何だか、この夢が現在の私の試行錯誤子育て生活状態を表現したような気がしてならない。
今後いつかの夢で、大きく成長しても尚、背に感じられる私の孫達の現実がその夢の中ではちゃんと家路につく事とあいなるのだろうか。神ぞ知る。

9/21/2010

私的心と体の天気図 その3

先日お友達ブログで、加齢と供に音、騒音や物音に敏感になる話を読んでいて、私もこのところ正しく、音への感覚が変わってきている事に気がついていて、それは私独自の体験なのかと思っていたのが、他にも同じ意見をもっている人たちのコメントを読み、少し、いや、大分安心した。
私の最近は富に音波長を受けるのに敏感になってきているような気がする。
十代の頃、若者には珍しいといわれた老人性鼓膜難聴症で2年間程通院した体験を持つ私は、それゆえに老年期には難聴者になるだろうと懸念していたのだが、その意に相反して、耳障りな音だと人一倍敏感に聞こえてしまうようになった。
しかし、ある人の話では「いやいや、老人性難聴になる前というのは、得てして音に敏感になるらしいよ。古くなってきている脳細胞の最後の悪あがきのようなものかもしれない。」という事だそうな。
そうなのかもしれない、言われてみると、そのような気にもなる。

或る波調がオーバーラップしてか何かの残聴現象が私の頭脳と頭蓋骨を音感ボックスのような役割をさせているものなのだろうか。
今朝も先日と同じく、ヴィデオ動画で映画Sun of Empireサンドトラック曲“Suo Gun”を見聞きした後に台所で作動している皿洗い機の騒音をバックグランドに頭の中から同曲のはっきりした歌声が一連のビデオ音として数分に渡ってリピートされるのが聞こえた。
先日は他の音楽を同じく皿洗い機の騒音と供に、はっきりと頭の中に聞こえて、その時はPCのスピーカーから流れているものかと思い、PCの画面やら、スピーカーやらを調べたりしたのだった。
その音楽の残調は皿洗い機が作動中のみ聞こえてくるもので、それが止まると私の頭の中の音もしなくなるのだ。
私の脳部分が破壊されてしまっての狂気沙汰とは決して思えない理由として、今までにそれぞれが違う曲を、やはり同じ状態で3度ほど聞いている。

たった今ある事に気がついた。
それはこの春に奥歯3本を差し歯にすべく口内右下に1センチ程の3本のメタル棒が差し込まれたのだが、もしかして、そのメタルを媒介に顎から頭蓋骨に音波を伝えているのだろうか。
外部の皿洗い機の作動波がそのメタル棒に伝わり、脳内脳波と合い重なって、脳内のメモリーバンク細胞から引き出された音波が残聴として聞こえたものなのだろうか、、。
今現在は歯科通院始めた5月から、メタル棒が歯茎から突き出ている状態なのだが、来週にはこれの上にセラミックの歯がかぶされる事になっている。
さて、その3本のメタル棒状態のものが新しいセラミック歯になってしまった後も、果たして同じ残聴現象が私の頭の中に起るものなのだろうか。
これは私の不可思議な残聴現象の原因をより解りやすく解明出来る良い機会になりそうである。
今後歯の完治での、私の残聴症状にどのような変化が起きるのは候ご期待。(別に誰が何の期待などはしてはいないのに-まあ、今は自分にそう言っておきますか。)
しかし、私の脳細胞。難聴になる前ぶれ悪あがきはそれはそれで、ずっとあがき続けて欲しい。
全てに鈍感よりは、いつも何事にもまだまだ敏感でいたいものだと、私自身が悪あがきを捨て切れないで毎日を暮らしているのだから。